エッセイ


さよなら、元町。

投稿日時:2012/09/01 22:28


 人は街を造り、街が人を創る。それには好循環と悪循環とがあって、荒んだ街は荒んだ心を育み、更に荒んだ環境を再生産していく。逆に One for all, all for one の気持ちを大切にする住民が棲む街は他者への思い遣りの心を育み、人々の助け合うコミュニティを形成していく。
 元町はそんな好循環の街である。そして、増大しつつある近隣住民さえも巻き込みながら、よりコミュニティを拡大していく可能性さえ持っている。あたかも、開港後、居留地の外国人たちがこの極東の小さな港町に隔離され、肩寄せ合いながらユートピアとしてのコミュニティを夢見たことを範としているように。事実、開港地を埋立てるために、猫の額ほどの山手の丘の裾野への移住を余儀なくされた元町の先人たちは、異文化を背負った彼等との交流の中から、Open で Friendly な、独特な港町の雰囲気を作り上げてきたのだ。
 そんな元町を去る日がやってきた。「明治11年7月1日横濱出立」と、フランス・ランスの自らの墓石に日本語で刻ませたアルフレッド・ジェラールの気持ちを懐にしながら。生麦事件の翌年、フランス軍駐留とほぼ同時に来濱し、仏軍用達の肉食品店から身を興し、山手の谷あいの湧水を外国船に販売した初期資本で、蒸気機関を有する煉瓦・瓦工場を元町に建てたジェラールは、その事業成功にも拘わらず、突然、この年の夏、横濱を発った。その理由は定かではないが、前年暮頃から急激な蔓延を見せ始めたコレラが原因ではないかと言われている。ジェラール本人はアメリカ経由の船旅で悠然と帰仏していることから想像すると、罹病したのは或いは彼が自分以上に大切にしていた人、だったのかもしれない。
 帰国後もジェラールは元町(現在の「水屋敷」の場所)に残した煉瓦・瓦工場兼販売用湧水の貯水槽のオーナーとして、その事業から得られる配当をもとに、ランスの農業振興に取り組み、世界的に知られるその主産物であるシャンペンの増産に寄与した。そして日本で蒐集した美術品約2,500点を市の博物館に寄贈する。それは、彼が愛した日本人の庶民の生活を活写した陶製のフィギュア等の民藝品を中心としたものであった(詳細は本サイトの「アルフレッド・ジェラールの航跡」をご覧ください)。こうして、ジェラールは帰仏後も死ぬまで元町との絆を保ち続けたのだ。
 土地を追われた先達同様、山手の丘と堀川に挟まれた狭小な土地で、未だに元町の人々は異文化接触により育まれた、他者との邂逅や絆を大切にする街づくりによって開かれたコミュニティの実現を目指している。伝統的共同体、そして企業の終身雇用制や家族の崩壊により、独善的に孤立化することになった都市の人々が、孤独死やいじめ、自殺、猟奇的犯罪から逃れ、また、バーチャルなネットワークのリアリティの虚構に気づき、「社会的存在」としての人間本来の姿を取り戻すことができるとすれば、こうした好循環を持つ街の人々の「こころの通う笑顔」に救いをもとめることしか、その拠り所はないのではないだろうか。
 さようなら、元町。そして、いつまでも素敵な笑顔の満ちた街であり続けて欲しい。


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