エッセイ


6歳と60歳 ― 懲役36年の後始末 ⑩

投稿日時:2019/10/21 06:28


 学齢を6歳とすると、その十倍の時間を生きてきた。教育制度を含めて社会馴化のツールと考えれば、まさに人生の10分の9を社会に馴化されながら過ごした、ということになる。改めて6歳の時点に記憶を辿ってみることにしよう。

 獅子座に生まれたからか、加えてA型で一人っ子として育ったせいか、全く社会的適応能力の欠落した子どもだった。近所の幼児コミュニティでは乱暴者の男子とではなく、女の子と人形やママゴト遊びをする方が好きだった。幼児ながらに七夕、自らと馴染みの女の子を牽牛織女に喩えて夢想するような変なロマンチストだった。加えて自家中毒という慢性病に悩まされていた。ちょっとした不安や心配事があると食べた物をすぐ戻してしまう。谷底に突き落とされたような不安にダイレクトに敏感な胃が反応してしまうのである。食べ物を全く受け付けなくなると、母の作る林檎ジュース(それは唯擦り下した林檎の搾り汁だったが)のみが唯一の栄養であり、今でも幼時に命を繋いでくれたのは林檎であったと思っている。貧しい家には父母の実家の津軽より送られた木箱の林檎の他に目ぼしい食物も無かった、とも言えるのであるが。

 学齢前の幼稚園にも馴染めなかった。他の園児が元気に園庭を駆け回る中で、独り庭の隅でぼっとそれを眺めていたし、幼稚園に行くことを拒否し、独り野山に出て水生物や昆虫と戯れている事も多かった。そんな孤立した幼児に気を掛けてくれた若い女性の教諭が何かの事情で園を去ることになり、三日三晩泣き明かして母を困らせたこともあった。神経質でコミュニケーション力のない不適応な、そんな子どもだったのだ。

 だが、奇妙なことに小学校に入学したとたんに、自家中毒はパタリと止まった。横濱の郊外にある分校である。山野を切り拓いて急激に学齢人口が増えたためであろう、翌年にはプレハブ校舎を増築し、分校から独立した小学校になった。その位に同学年の子どもたちが多かったのだ。寧ろ、大勢の中で埋没して生きることに安心感を覚えたのかもしれない。決して仲の良い友人ができた訳ではなく、相変わらず家に帰ると独り遊びを続けていた。そして、小学二年生になって、明らかな適応障害の症状を呈し始めた。学校の成績も極端に悪く、連絡帳やテスト結果は全て机の中に仕舞ったまま家にも持ち帰らず、母は何度か学校に呼び出された。学校の教諭は、行き過ぎた家庭内教育を諭したのかもしれない。母はこれを契機として唐突に放任主義となり、お蔭で勉強の重圧からは開放された。母が洋裁の仕事で昼間は家を空けるようになったのもこの頃だった。

 小学三年以降、成績も安定し親しい友人も何人かできるようになった。この問題児に目を掛けてくれる教諭もいてくれて、何かと引き立ててくれたせいか、何時かクラスの中の「目立ちたがり屋」になっていた。だが我儘に育ったせいか、どちらかといえば他人に嫌がらせをしたり(まだ「いじめ」は起きていなかったが)、時に意に沿わぬことがあると「発狂」して騒ぎちらしたりする「変人」として見られていた。

 小学校五年生時に親の進学方針もあったのだろう、都心に引っ越すことになり転校を経験したが、送り出してくれた教諭も級友もとても優しかった。別れの挨拶替りに自ら創作した「ミスター・スプリング」という紙芝居を級友たちの前で演じた。発条夫(ばねお)君が皆に愛されながらも、遠く跳ね発ってしまうような話だった、と記憶している。受け入れてくれた都心の小学校の教諭も級友もまた「大人」だった。残りの一年半の小学校生活をこれ程平安に楽しく過ごせたことは僥倖だった。

 考えてみると、6・3・3制という学制は6年単位がベースとなっている。これもあるいは社会馴化のひとつの手法なのかもしれないが、確かにその後の半生を考えてみると3年、6年といった単位で環境に変化が訪れているような気がしてならない。まさに「懲役36年」自体が6年×6期間なのである。再就職活動で職務経歴書を書きながら気付いたのも、経験職域を分類すると6種類になる、ということだった。経理、事業管理、海外子会社管理、国内子会社管理、ネットワーク管理、そして内部監査。出来すぎである。優等生のようなサラリーマン職歴といっていい。

 「執行猶予期間」である学齢期に無意識裡にある「世渡りの原則」を内面化したのかもしれない。自分は基本的に我儘で他人の意見に左右されない、社会的には不適応な人間だ。であれば、形式的には世の中のルールに従いながらも内実は決して主義主張を曲げることをしない生き方をしよう。いわば「面従腹背」である。これは官僚に限らず、日本の全ての組織に求められる、組織人の処世術、なのかもしれない。ただ、私には致命的な欠陥があった。つまり、本心が「顔に出てしまう」のである。なかなか面従とはなれない。これが、サラリーマンとしての私の失敗の本質である、と今では確信している。

 だが、敢えて言うなら、私が36年間帰属した会社は「面背腹従」を許容する度量を持った会社であったことは幸いだった。いかに上司に楯突こうと、それが組織の利益に繋がると見做される限りにおいては、部下の意見を尊重する組織であったのだ。ある意味では、水を得た魚の如く、この組織を泳ぎ回った、と言えるかもしれない……少なくとも、ある時期までは。それは、この会社が「偉大なる中小企業」だったからなのだ。

 上場企業となった瞬間に会社は変貌を遂げてしまった。不幸にも、それは6年半の海外勤務からの帰任直後のことだった。海外赴任の間に本社で着々と積上げられてきた中小企業から大企業への地道な組織の変貌を知らぬまま、昔の流儀を通してしまったことにその後の失敗の原因があった。モノ言う社員は上司から煙たがられ、また、大きな試練に立たされても支援者も協力者を得ることもできず、四面楚歌に陥ることになった。

 だが、挫折を経験しながらも後十余年をそれなりに過ごすことができた。二度目の海外勤務を経験することもできた。全てはレスペクトしうる先輩に恵まれたことが原因である。会社の職制上の上司は、たとえ部下との間に信頼関係が結べたとしても、人心の理よりも組織上の是非で物事を判断せざるを得ない。合理的な組織であればこれは組織の構成員全体に共有される正統性を持っているが、多かれ少なかれ大企業となった組織には「属人的で不合理な経営判断」は存在していて、ここに「面従腹背」の必要が生じてくる。しかし、同じ中小企業を経験してきた先輩の中には、「面背腹従」の論理を未だに理解してくれる人が少なくない。組織としてあるべき理念あるいはベクトルさえ共有できれば、たとえ不合理な判断に準ぜざるを得ないとしても、心情的な「救い」は存在している。要は、こうした理念、方向性を共有できる先輩(あるいは同僚)が存在するかどうか、ということだ。

 上場企業となってから入社してきた後輩はもとより、それ以前の後輩にしても、こうした「面背腹従」を理解できる者は皆無ではないものの、決して多くはない。末期の私の十余年間は貴重な数少ない先輩に助けられながら「余生」を全うした十余年であった、ということである。一方で、自らが「あるべき先輩」として、後輩に対してこうした「良き伝統」のバトンを繋げなかったことには忸怩たるものを感じざるを得ないのだが、これも組織が晒された社会環境に適応していくには致しかたのないことであろう。つまり私自身が「時代遅れ」となってしまったのだ。

 さて、36年間の社会馴化の期間は満了した。もう「面従腹背」を強要されること、あるいは矛盾を抱えて内面化する必要もない。自らを解き放つとして、さて、その価値観を自らのものにするに、更に6年を要するものなのであろうか。そのための何等かの起爆剤が必要であるに相違ない、と思うのである。



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