エッセイ


栄螺の殻のように ― 懲役36年の後始末 ⑫

投稿日時:2019/12/13 16:30


 欧米人の時間感覚は直線的である。それは恰も教会の尖塔が天に向かって伸びるように、唯一絶対な神による予定調和に向かって時間は直進するからである。一方、東洋の時間感覚は円環的である。多くの神々は平板な大地に多様な因果を張り巡らせ生者必滅、会者定離を繰り返しながら因果は巡り輪廻の時間を生み出す。それでは、西欧近代によって地球規模でもたらされた近代化は一体、日本を含むアジア地域にどのような時間感覚をもたらすのであろうか。それは円形に束ねられた導線を上下に引き伸ばしたような「螺旋」を描くことになるだろう。即ち引き伸ばされた方向の前面からは、恰も円環(輪廻)を繰り返すように見えながら、引き伸ばされた方向に時間は進行していく。そしてそれは直線ではなく常に跛行しながら緩慢な進捗を辿ることだろう。
 これは大学時代、社会学の比較文化論の講義を聴きながら頭の中に思い描いていた近代化以降の日本の時間感覚に関する私なりのひとつの仮説である。40年も前に漠然と考えていたことが未だに頭の隅から離れないのは、多分私自身のこの40年間の経験値がある程度その仮説の実証に相当する、と感じているからなのだろう。浮き沈みを繰り返しながら川をゆっくりと流れていく人生観、と言ったらいいのだろうか。一方で齢六十を経て旅立ちの場所に戻って行くようなどこか懐かしい感覚がこれに重なっている。そう、60歳の自分が6歳の頃の自分と重なるように。
 しかし、60歳の未来は6歳の未来のように開かれているものではない。寧ろ、生まれ来た場所に戻るための夕暮れ迫る帰り路のようなものだろう。定年を契機に来し方を顧み行く末を想う私の旅もそろそろお終いになる秋(とき)を迎えたようだ。フリー勤務の10ヶ月を含め、36年間の「お勤め」を終えて早くも二年になろうとしている。盛夏に塗れた亡失の裡に気付けば61歳を迎え、人生の暦は早くも「次の」一年を刻み始めている。
 助走期間を含めてこの二年間に色々なことに小さな挑戦を重ねてきた。実践小説教室に赴き若き頃の我流の小説作法の矯正を試みた。好きな読書に関わる途を模索してみようと、読書アドバイザーの養成講座に通ってみた。小説教室の先生の推薦書を読み込む読書会にも参加してみた。私のHPのブログに関心を持って連絡を頂いた大学教授や著作家といった幾人かの方々との新たな知己を得ることができた。書き言葉に慣れるために始めた日記も愈々丸二年の間、続こうとしている。そして三年前に完成した書庫兼書斎(詳しくは本ブログの「岬町こと始め」にその経緯を記している)での読書三昧の生活。太宰治全集、漱石全集の再読。全ては小さな一歩に過ぎないかもしれないし、とても「生産的な時間」を送っているとは言えない。
 もはや再び世に出て活躍したいという意欲を抱く程の体力も気力も残されてはいないようだ。とはいえ、「三つ子の魂百まで」ではないが、多分私は死ぬまで「書くこと」を止めることはないだろう。たとえ「最後の読者」がいなくなろうとも。そう、本当の最後の読者は、私自身なのだから。
 高度資本主義の行き着いた袋小路の中で、現在の日本は再び100年前の「円環」のサイクルに戻りつつあるような気がする。否、日本のみならず世界中が「後戻り」をしているように見えなくもない。ネット内に蔓延する個人のリアリティを超越した虚構の英雄や偶像たちは、何処か戦前の「現人神」の天皇像に重なるように思えなくもない。分断と格差を煽るだけの為政者はこの偶像たちを利用して、本来は個人のリアリティから発すべき政治批判を無力化しようとしているのか。本来、日本人の美風であるべき「忖度」を悪用した思想言論統制。歴史は作為的に書き換えられて歴史的事実が隠蔽・改竄され、為政者の都合のいいように三文作家が新しい似非歴史書を書き上げていく。70年前、自由と平和を望んでいたこの国の人々は、こうして貶められた無知のうちに自らの首を締め、棄民と戦争を生み出す国を再生産しようとしている。再び、多くの犠牲者と悲劇を繰り返すまで、この国が再び本来の自由と平和を取り戻すことはないだろう。
 「螺旋」という時代の趨勢があるとすれば、一個の人間の人生は恰も栄螺の殻のようなものだろう。その螺旋の先は循環を繰り返すうちに次第に窄まり最後はある一点へと集約していく。それぞれの栄螺が殻の先にこの先端を擁しているように、ぞれぞれの人生もいつかはこの「収束」へと行き着くに違いない。そして、その先も個人の時間を超えて、永遠の螺旋の歴史が続くことを夢みて。
                                                                        (了)



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