岬町だより
岬町こと始め ⑥ 「誰も知らない」
建築開始からほぼ半年を経て、いすみ市岬町の書庫兼書斎が完成した。晩秋にT建築会社から完成引渡を受けると、東京から月1回は週末、現地に赴き「設営」を始める。先ずは電気、ガス、水道、そして最小限の家電。照明、空調、ネット環境、冷蔵庫、洗濯機(受信料を二重に払うのがいやだから、テレビは置かない)。次は、必要最低限の食器、工具、雑貨。そして、倉庫に預けたままの家具類を搬入する。これで、ようやく落ち着いて寝食が叶うことになる。そして本命の、蔵書だ。先ず、倉庫に預け置きの、単行本、文庫、新書、洋書、全集、そして和洋問わず大判の美術本。これを、備え付けに誂えた書庫の棚の高さを調整しながら一箱一箱と整理していく。次に、東京の自宅を埋め尽くした蔵書と、椅子等の家具の移送。これらを整理し都合百箱以上の段ボールが空になった。
岬町こと始め ⑤ 「僻地のヘソ」
この地は夷隅川の蛇行によって浸食された低い丘に囲まれた盆地が内陸に向けて伸びている。その寿司屋の主人によれば、平坦な田圃道がいつまでも続くので、学生や社会人の陸上部の長距離練習コースとして使われる事が多いのだ、という。書庫兼書斎の周辺には、一軒のコンビニも、銀行のATM、雑貨店、スーパーの類は一切ない。食料・雑貨を求めるには6キロ離れた駅前にある「全日食」系列のスーパーまで行かなくてはならない。車を運転しない身にとっては、かなり不自由な場所といえるだろう。
岬町こと始め ④ 「月に吠える」
さて、余り金を掛けずに書庫兼書斎をどのように建てるか。まず相談したのは高校時代の友人、建築学科を出てゼネコンに勤務する一級建築士である。本当は図面でも引いてもらえないかという下心があってわざわざ酒に誘って相談したのだが、「地元の建設会社を探すことだ」というにべもない回答。大手の建設会社に頼むと結局は中間マージンを取られて高くなるし、ましてや設計事務所なぞに依頼すれば設計料もばかにならない。ニ級建築事務所でいいから、きちんと設計への要望を聞いて実現してくれる、現地で評判のいい建設会社を探すことが結果的には廉価でいい家を建てる秘訣だ、という。流石に、この業界で生きている専門家のアドバイスであった。
岬町こと始め ③ 「竹林の風」
亡父は何故この竹林の土地を購ったのだろう。父が逝って以降の13年間を含む35年間、僅かの対価を支払い、この土地を分譲したN不動産にその維持・管理を委託してきた。東西に細長い80 坪の土地は周囲を竹林に囲まれているが、分譲時に一度抜根を施したのだろうか、内側は平坦な原っぱになっている。春と秋に一度ずつ、N不動産はこの原っぱの草刈りを行う。晩春、五月中下旬頃になると、地下茎を伝わって原っぱに生えてくる筍を抜き(これは、あるいはN不動産の副収入になっていたのかもしれない)、同時に未だ背の低い、生え始めの雑草を刈り取ってしまう。そして秋には、春に刈り残し、或は根から再生した草の背の高く伸びきったのを刈って片づけ、綺麗な原っぱに戻したところを写真に撮って実家に送ってくる。これは放置された別荘地に市が課している最小限の維持・管理であるように、毎年初に委託申込の受付を促すために送ってくるN不動産の案内には、記載されている。
因みに、この場所に家を建てて最初の晩春に筍がどの程度の密度と頻度で生えるものか、実体験した時のことを記しておこう。五月の初旬に四日ばかり滞在していたのだが、竹林に囲われた家の周りには、想定もしていなかったような場所から筍は生えてくるのだ。園芸用の小さなスコップを持って頭を出したばかりの筍の太い胴回りの土を掘り下げていく。そして地下茎に行き着いた辺りで、筍を前後左右に揺らしながら深く折れる節目を探っていく。こうして筍が観念しそうな程合いを見計って、強く胴を捻じ伏せると「ポキッ」と音を立てて、いわゆる筍が掘れるのである。三泊四日の滞在で、都合十二本を獲っただろうか。昨日は何も生えていなかった場所に、翌朝、突然、筍は頭を出すのだ。無論放っておけば、それは凄い勢いで竹になる。早朝、朝露に濡れる叢を見渡しながら、昨日は何もなかった地面の微かな勃興に眼を凝らしながら、それを見つけるとスコップを片手に掘りに庭に出ることになる。竹とのいわば生存競争のようなもので、決して油断はできない。茹でた筍に舌鼓を打つ、というのは副次的な余禄、だと言っていいほどの「闘い」なのだ。こうして、竹に囲われた土地を35年間に亘り維持・管理してくれたN不動産を決して恨んではいけない、とその時に再認識した(たとえ副収入があった、として…でもある)。
さて、売却を含むこの土地の処分を未だ検討していた際に、一度、現地を訪れたことがあった。N不動産に車での案内を頼むと、分譲した土地はもう関係ありません、とばかり断られてしまったので、仕方なく外房線の最寄の駅から6キロの道のりを内陸に向けて歩くことにした。晩春の駅に降り立つと、上り・下りともに1時間に1本程度の各駅停車しか止まらないだけあって、乗降客も疎らで、駅前には、そんな乗降客の出迎え・見送りの自家用車が数台止まるほどの車寄せがあるばかりだった。そんな駅に降り立つと、亡父が土地を購入した際に残した五万分の一の地図を頼りに駅前から歩き始める。
岬町こと始め ② 「行き場のない土地」
十三年前に父は逝き、行き場のなくなった外房の竹林が相続財産として遺された。
(ブログ 「行き場のない土地―岬町こと始め ② 」 2017.6.11.より再掲)
岬町こと始め ① 「父の夢破れ」
今からかれこれ35年前のことである。丁度私が社会人になった前後の時期にあたる。自宅の一戸建てのローンを55歳で完済した父は、あるひとつの老後の夢を実現しようと考える。父は津軽という寒冷地で18歳までを過ごして上京した。その後、東京の大学を出て、東京の出版社に勤め、後5年で定年を迎えることになる。父がローンの完済期限を55歳にしたのは、ローンを組んだ時点での定年は55歳だったからだと想像している。その後、日本人の平均余命は伸び、年金制度の逼迫も相俟って、定年は60歳に延長された。父には「5年の猶予」が与えられたのだ。
35年前、今は亡き父が老後の隠棲を夢みて購った外房の別荘地。父は夢果たすこともなく生涯働き詰めで77歳の生涯を終え、往き場のない土地が遺された。外房とはいえ内陸の何の変哲もない竹林に買い手のつく筈もないまま、私自身の定年が目前に迫る。
ふと気づけば二度の海外赴任で倉庫に預け入れた4,000冊に及ぶ蔵書と洋家具一式。老後の生計に倉庫代も莫迦にならぬことに思い至り、この地に書庫兼書斎を建てて収蔵する。表札に「書圃・唐変木」を掲げ、肩書潰えし退職後の閑居となすべし。
最寄のスーパーまで徒歩1時間半。コンビニの1件もなく不便この上もない場所ながら、蔵書に囲まれ、竹林そよぐ風音聴きながら終日読書に浸るもまたよい。しかし、社会的動物である人間は、やはり何処かに人との繋がりを求めざらんものと見える。そんな、外房はいすみ市岬町の生活を徒然に綴っていこうと思う。