岬町だより

岬町こと始め ⑥ 「誰も知らない」

 建築開始からほぼ半年を経て、いすみ市岬町の書庫兼書斎が完成した。晩秋にT建築会社から完成引渡を受けると、東京から月1回は週末、現地に赴き「設営」を始める。先ずは電気、ガス、水道、そして最小限の家電。照明、空調、ネット環境、冷蔵庫、洗濯機(受信料を二重に払うのがいやだから、テレビは置かない)。次は、必要最低限の食器、工具、雑貨。そして、倉庫に預けたままの家具類を搬入する。これで、ようやく落ち着いて寝食が叶うことになる。そして本命の、蔵書だ。先ず、倉庫に預け置きの、単行本、文庫、新書、洋書、全集、そして和洋問わず大判の美術本。これを、備え付けに誂えた書庫の棚の高さを調整しながら一箱一箱と整理していく。次に、東京の自宅を埋め尽くした蔵書と、椅子等の家具の移送。これらを整理し都合百箱以上の段ボールが空になった。

 今まで、自分で買い求めた蔵書をまとまった場所で数えたことがなかったが、書庫にとりあえず収めた段階で、概算してみると約3,000冊。未だ、執筆に必要な本は東京の書棚に残してあるので、それを含めればほぼ4,000冊というところか。それにしても、と思う。アルフレッド・ジェラールが帰国後ランスで収集した農業関係の本は23,000冊と言われている。事実、彼は実家の3階建てのパン屋を、これらの蔵書を収蔵するための図書館に改装したほどである。更に、私が大学生時代に通いつめていた「大宅壮一文庫」に至っては27万冊というから、上には上があるものだ。でも、私にはこれだけの蔵書で十分である。
 家内の整理が一段落ついたところで、玄関先に木の表札を掲げる。
     「書圃 唐変木」
 自らの名字にこれを冠したのは、もしこの書庫の主がこの世から去る時あらば、これらの蔵書とともに竹林の私設図書館として活用して欲しいという心積もり、である。「書圃」とはほぼ「書林」と同じ意味で、本が沢山ある場所を言う(「書林」がよく出版社に冠されることが多いのはそのような理由のようだ)。自生的な「林」であるよりも、心の土を耕すことで実る田圃の稲たる蔵書であって欲しい、との願いからかく名付けることとした。
 さて、これで平穏な田舎暮らしが始まる…かと思いきや、道程はそう平坦ではない。先ず、ごみの問題がある。新築家屋の固定資産税の査定にやってきた市の職員にごみの話しを訪ねてみると、住民票を移して市民となっている訳ではないので、市の行政サービスというよりは、まずは地元の自治会に加入して、共用のごみ回収箱を使わせてもらうことが一番の近道だろう、という。ごみ袋自体は、回収費用を含めた価格で、スーパーで既に購うことができるため、あとは自治会が管理している「ごみ回収場」の使用許可を得る、ということである。
 そこで早速に、件の寿司屋の主人に相談してみれば、父親が地元自治会の世話役をしているので、というので聞いてもらうことにした。自治会の「区長」(ここでは自治会の単位が「区」となっている。決して東京23区の区長を想像してはならない)さんが言うには、当地に越してきた移住者とは異なり、ウィークエンダ―(住民票を移さず、週末だけ訪ねてくる「別荘民」)からは自治会費を徴収していない。私に払う意思がある、といっても、他のウィークエンダ―との公平性の問題があるので、自治会内で対応について改めて協議させてもらいたい、という。つまり、一人から徴収することになれば、他からも徴収しなくては不公平になる、という判断だろう。他のウィークエンダ―達は、殆どが自家用車を利用しているので、帰宅の際に滞在中のゴミを自宅に持ち帰る習慣となっているらしい。
 私は横濱に居住していた際も、率先して自治会活動に参加していた経験があり、自治会費を支払う意義というものは理解しているし、生活していく上で、地元のコミュニティへのある程度の参画は必要だと割り切っている人間だ。だが、寿司屋の主人の話しでは、それほど単純なものでもないらしい。例えば、都心部では既に見られなくなったが、冠婚葬祭への伝統的共同体(「ムラ」)の関与の仕方(強要)がある。自治会員の婚礼や葬儀には必ず参列し祝儀・不祝儀を欠いてはいけないし、祭礼の際にも率先して「担ぎ手」となる覚悟が必要なのだ、という。
 実は、と主人は言う。父が家を建ててこの場所に来て三十年にもなるのだが、未だに彼らでさえ「余所者」扱いされている、のだという。自治会も、完全に生え抜きの地元農民による「第一組合」と、余所者で構成される「第二組合」に別れている、という。この話しを聞いて、確かに伝統的共同体の紐帯というものには想像を超えた強靭さと排他性があるものだ、と思った。子供の頃、横濱の片田舎で育った私自身にも、戦後二十年を経た頃の幼少時でさえ、町内会の「勤労奉仕」なるものに父母が徴用されていた記憶が蘇る。
 こうした顛末で、2~3日の滞在で発生するごみについては都度、東京に持ち帰ることにした。寿司屋の主人の説明では、この問題は、住民票を当地に移さない限りは容易に解決しないように思われる。…とはいえ生ごみまで帰路の電車内に持ち込むことは流石に気がひける。結局「堆肥コンポスト」を購入して、生ごみは可能な限り当地で処理することにした。
 勿論、それ以外の不燃ごみ、生活ごみも極力減らす努力をしなければならない。滞在中の食料については、可能な限り東京の自宅で調理をして持参するようにするか、ごみの少ない素材で大量に作り置きできるものを選ぶ。過剰包装を断る、あるいはスーパーで包装を破棄してくる、といった具体策だ。そもそも、当地では物質的な生活と距離を置き、贅沢な食生活を回避する目算だったのだから、それを徹底するだけのことなのである(かくして、唯一の食べる楽しみは、件の寿司屋、ということになった)。
 このようにして、この辺鄙な土地のセカンドハウスでの生活態度がひとつの方向性に収斂にしていくいくにつれ、ふと、近隣に訪れた和風アーミッシュの生活こそ、最も今ある環境に適応し、理に叶ったものなのではないか、と思うに至ったのである。「郷に入れば、郷に従え」の譬え…その通りなのかもしれない。
 かくして、都心を離れ、ひとのこころも変遷するものであろうか。       (了)
(ブログ 「誰も知らない―岬町こと始め ⑥ 」 2017.6.14.より再掲)

岬町こと始め ⑤ 「僻地のヘソ」

 この地は夷隅川の蛇行によって浸食された低い丘に囲まれた盆地が内陸に向けて伸びている。その寿司屋の主人によれば、平坦な田圃道がいつまでも続くので、学生や社会人の陸上部の長距離練習コースとして使われる事が多いのだ、という。書庫兼書斎の周辺には、一軒のコンビニも、銀行のATM、雑貨店、スーパーの類は一切ない。食料・雑貨を求めるには6キロ離れた駅前にある「全日食」系列のスーパーまで行かなくてはならない。車を運転しない身にとっては、かなり不自由な場所といえるだろう。

 一方で、ここに書庫兼書斎を設けたのは、そんな不自由さに敢えて身を置くため、だった筈なのだ。時間を忘れ、読書や執筆に没頭するためには、手間の掛った贅沢な食事も必要なければ、竹の風に戦ぐ音、野鳥の囀り、開け放した窓のカーテンを抜ける涼しい風、竹林の木漏れ日溢れる窓辺、(これに敢えて加えさせて頂ければ地元酒蔵の吟醸の一本でもあれば)…それ以外の一体何が必要だというのだろう。無論、(今の時点では)定住する積りはない。都会の喧騒に飽きれば、活字を追い掛け、文章を認めるために、ここにやって来ればいいだけの話しなのだ。
 といいつつ、社会的動物としての人間の一員である限り、束の間の棲み家の周囲に一体何があるのだろうか、ということが気に掛って仕方がない。それが慎ましいながらも「生活」というものなのだろう。「いすみ市岬町○○」と住所を入れてネットで検索をかけてみると、まず出てくるのが、すぐ近所にあるこの寿司屋である。
 そもそも、過疎とも言うべき田舎町に何故、この寿司屋があるのか。四十歳を少し過ぎた主人はこう説明する。
 東京・銀座の某有名店で修業を積んで、いざ自分の店を持ちたいと思った時に、まず田舎にあるこの実家を考えた。すぐ目の前にある強化プラスティックの組立工場で働く父は、職住接近を実現すべくこの場所に家を建てた。修業が終わり独立して店を持てる見通しがたつと、家賃の高い東京よりも、この「隠れ家」的な田舎の実家に店を作ることに一種の差別化を図れるのではないかと考えた。某有名店のナンバー2まで腕を磨いた彼には、既にしかるべき固定客もいたし、修業した店の仕入の責任者だった彼には、築地の仲買との間に培われた貴重な信頼関係もあった。但し、彼の母親はそれに強硬に反対したそうだ。こんな田舎に店を作って、客が来る筈がないだろう、という至極に尤もな反論だった。しかし、そんな母親の危惧を裏切るように、彼は自らの意思を貫き、そしてその目論みは見事に的中した。
 東京の店の常連客が休日を利用して房総への遊興がてら立ち寄ってくれたのを皮切りに、噂が噂を呼んで、次第に固定客は増えていった。また、出張の出前の握りもやっているので、今でも一流企業のパーティー等への出張依頼も少なくはない。有名人が衆人環視を避けてお忍びで来ることもあるのだ、という。
 書庫兼書斎の建築が進み、節目節目にこの地を訪れると、この辺鄙な場所にある寿司店の不可思議は増幅の一途を辿るのだが、思い立って工事騒音のお詫び方々訪ねてみれば、カウンター越しに聞く主人の話しはむべなるかな、であった。海の幸がふんだんな土地柄にも拘わらず、仕入は築地一本に絞る、というのも理が適っていた。都心の一流店に決して引けを取らないネタと腕がある。主人の言う通り、同じクオリティなら、都心の店よりは四割方安いだろう。その四割は、ひとえに「地代」である。外房を訪ね、知名度だけで名を馳せる店で不味い食事をするよりは、知己のある確かな店に立ち寄る、というのが都会人の筋だろう。土日は入れない程に店は盛況であるし、出張出前があるので、唐突に訪ねても店が開いているとは限らず、予約を捌くのが大変なほどの人気である。
 この店には様々な人々が集まる。外房線の海辺にある近隣の駅の街に住み都心に通勤するサーファーや、近隣住民の法事客、そして大半は東京に住んで、外房に遊びがてらこの寿司屋に立ち寄っていく客たち。この寿司を食べるついでに外房を訪ねる客さえ少なくはない。主人も語るように、同席した客には余り立ち入って尋ねはしないが、カウンター越しの知らない客同士の会話を繋ぐのも、また主人の得意技の一つである。かくして、この店はある意味ではこの土地のヘソともいうべき場所になっている。
 主人によれば、廃屋古民家再生居住への転入者に対する市の財政支援政策等も効を奏し、この数年、都心からの移住者やウィークエンダーが増えてきている。大半は「土いじり」が目的らしい。確かに、近くの中華屋(この店も東京近郊から夫婦で移転してきて、自ら野菜を栽培し無化調の中華料理を供している)に来る客も、週末を利用して家庭菜園に手を掛けにきている夫婦連れのような客が多い。手作りのパン店や酪農家のやっているチーズ屋などが、この辺りにはあちらこちらに散在し、金・土・日の三日間だけ営業し、決して過剰生産のない適度な収入を得ているのである。
 ある日、いつものように「いすみ市岬町○○」とネットで検索をしていると、小半時歩いた場所に無農薬食材を販売・供するするカフェがあることを知った。初夏の新緑の林の中の、鶯鳴き競う田畑の小道を抜けていくと、「○○フィールド・カフェ」という看板に巡り合う。丘の小道をゆっくりと上っていくと、高台に拡がる草原に、宿泊施設やカフェの入った数棟の古民家を改造した建物群が見えてくる。緑の牧草の中庭には、サステイナブルをテーマにした「田植え合宿」にやって来た若い子供連れの十数家族が、芝生に敷物を拡げて円座になって食事を楽しんでいる様子。古い木造の風通しのよいカフェでは、有機栽培野菜を使ったヴェジタリアンのプレートを頼む。多くの客たちは屋外のテラスのテーブルで食事を楽しんでいる。
 手作り陶器のプレートを食べ終えてふと目を凝らすと、テーブル隅の小壜に、この裁断したぼろ切れで食器を拭うと、皿を洗う汚水が減らせる、と書いてある。なるほど、サステイナブルである。食事を終えて、テラス側の庭に出ると、植えたての稲の苗が田の水面に輝くのが見渡せて、その先には灌木の新緑が連なっている。木に繋がれた羊がニ頭、首輪の半円を描きながら田の裾の叢の牧草を食んでいる。ふと、木の枝に渡したロープに吊るされた洗濯物の素朴な植物染めの衣類が風景に馴染む風景を目に、ああ、これはいつかアメリカ映画で見た、アーミッシュの生活そのものだな、と思った。
 こうして「何もない場所」のように思える場所にも、その場所なりの「ヘソ」がある。何もない場所には、何もないことを大切にするための「ヘソ」が存在しているのだ。
(ブログ 「僻地のヘソー岬町こと始め ⑤ 」 2017.6.13.より再掲)

岬町こと始め ④ 「月に吠える」

 さて、余り金を掛けずに書庫兼書斎をどのように建てるか。まず相談したのは高校時代の友人、建築学科を出てゼネコンに勤務する一級建築士である。本当は図面でも引いてもらえないかという下心があってわざわざ酒に誘って相談したのだが、「地元の建設会社を探すことだ」というにべもない回答。大手の建設会社に頼むと結局は中間マージンを取られて高くなるし、ましてや設計事務所なぞに依頼すれば設計料もばかにならない。ニ級建築事務所でいいから、きちんと設計への要望を聞いて実現してくれる、現地で評判のいい建設会社を探すことが結果的には廉価でいい家を建てる秘訣だ、という。流石に、この業界で生きている専門家のアドバイスであった。

 建築費を安く上げるために、余程プレハブにでもしようかと思っている、とも言えば、住居仕様のプレハブは決して安くはないし、空調もないようなプレハブなら蔵書が痛むだけで結局は後悔するよ、と言われ、浅はかな下心と思惑は脆くも潰え去る。しかし「地元の建設会社」といっても千葉につてのある訳でもなく…と思っていたら、ある大手の情報関連会社が「注文住宅」の建設会社選定のお手伝いをするサービスをしている、という広告に目がとまった。
 早速、新宿にあるその会社のオフィスを尋ねてみる。担当者の女性は決して建築のプロではないが、流石に大手情報会社だけあって業者選定のノウハウの壺を心得ている。地面図や概算予算を含めた条件を確認した上で、早速、千葉の支店に連絡をして、このような規模の建築で地元で評判の良い建設会社を三社紹介してくれるという。2週間後に千葉の支店でその三社と直接面談することになった。
 蘇我駅から歩いて15分程のショッピングモールの中にその千葉支店があった。三社の担当者(内、二社は直接社長が現れた)が事前に提示してあった条件でラフな設計図を持って、当方の要望を聞きながら、いろいろなアドバイスをくれる。その中で、社員数名の小さな二級建築士事務所ではあるものの、こちらの要望に丁寧に応えてくれる社長の誠実そうな姿勢に好感を持った一社を選定することにして、その後も、そのT建設会社を契約や打合せのために数回に亘り訪れることになった。
 社長、設計担当者、現場責任者が何度か現地を訪ね、図面をもとに近隣の土地所有者の調査を含めて設計・建築の準備を始めてくれる。一番手間を掛けたのは隣接地との境界の特定であった。35年前にN不動産が分譲した時には境界の特定に必要な「境界杭」が打たれていたものの、長い年月を経て杭は腐葉土に埋まり、何らかの拍子に抜けてしまうこともあるようだ。図面をもとに漸くいくつかの境界杭を掘り出してくれたが、どうしても一本見つからず、そこについては図面をもとにした推量で済ませるしかなかった。
 同時に、隣接する土地の所有者を土地登記簿で調査してくれる。北側はこの分譲地のもともとの地主、東側は分譲以前からの所有者(この土地との境界には既に隣人により簡単な柵が設けられている)、そして南側にはこの土地と同じく東西に長い土地が二葉並んでいる。興味深かったのは、一番南側の土地は私と同様に当初の購入者から相続したものだったが、真南に隣接する土地はN不動産から購入した人から十年程前に購入した人だった、という事実だった。それが判明するのは、登記簿には所有の原因が「相続」か「売買」か記載があるためである。
 T建設会社の社長のアドバイスで、境界確認に立ち会って頂けないかという要請の手紙を、この南側の所有者の登記簿記載の住所に送付することにした。購入して十数年経っているので、宛先不明で戻ってくることを前提としながらも、随分と丁寧な文面で認めたのだが、結局回答の手紙も電話もメールもなかった。「隣人」となるかもしれない人が、私のような不可抗力ではなく、何を目的にどのような経緯でこの土地を購入したのか、非常に興味深いことであったのだが、結局、これを解き明かす術は与えられなかった。(同じ中央線の更に西側にある駅の、登記簿に記載された所有者の住所を直接訪ねてみる、という方法はあるにはあったのかもしれないのだが…。)
 さて境界もある程度確定し、設計図も完成したところで施主として一番心配になったのは「竹」の問題だった。竹の生える土地に家を建てるときに一番留意すべきことは、床下に生えた筍が床を突き破って家に侵入すること。ネットにはその被害と対策が沢山載せられている。竹は地下茎で横に拡張するので、竹林の近隣に家を建てる時には、先ず敷地の中の地下茎を一旦全て抜根し、建物の周囲の地下にフェンスを巡らせる、等という面倒な事が書いてある。T建設会社のT社長も流石にこうした「竹林の中の家」を建てた経験はなく、彼自身も竹対策については暗中模索の様相であった。
 T社長が出入りの造園会社の方に相談したところ、先ず兎に角、敷地の抜根は必要だろう、と言う。その後は基礎のコンクリートに通常より15センチほど厚みを持たせて、間違っても下から筍が基礎を押し上げないようにしたらどうだろうか、というのが実施設計時の彼の最終提案であった。造園会社の方のアドバイスもあるので、その提案を受け入れることにした。しかし、後に聞くところでは、この造園会社の方もさほど竹の扱いに慣れている訳ではなく、「竹の抜根は想像以上に大変だった」ということで、結局は抜本的な解決策は分からぬまま見切りの工事となったのである。だから、これからも「何が起こるか分からない」し、筍に対する防御は目を離せない、ということになってしまった。
 こうして、竹と戦いながら、思い出すのは、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に収められた「竹」という詩の一節である。
  かたき地面に竹が生え、/地面にするどく竹が生え、/まっしぐらに竹が生え、/
  凍れる節節りんりんと、/青空のもとに竹が生え、/竹、竹、竹が生え
 おそらく朔太郎がこの詩に詠んだ竹の生命力の強さを、岬町の書庫兼書斎に起居しながら、これからも痛いほどに経験するに違いない、という予感がするのだ。目の離せない隣人である。
(ブログ 「月に吠える―岬町こと始め ④ 」 2017.6.13.より再掲)

岬町こと始め ③ 「竹林の風」

 亡父は何故この竹林の土地を購ったのだろう。父が逝って以降の13年間を含む35年間、僅かの対価を支払い、この土地を分譲したN不動産にその維持・管理を委託してきた。東西に細長い80 坪の土地は周囲を竹林に囲まれているが、分譲時に一度抜根を施したのだろうか、内側は平坦な原っぱになっている。春と秋に一度ずつ、N不動産はこの原っぱの草刈りを行う。晩春、五月中下旬頃になると、地下茎を伝わって原っぱに生えてくる筍を抜き(これは、あるいはN不動産の副収入になっていたのかもしれない)、同時に未だ背の低い、生え始めの雑草を刈り取ってしまう。そして秋には、春に刈り残し、或は根から再生した草の背の高く伸びきったのを刈って片づけ、綺麗な原っぱに戻したところを写真に撮って実家に送ってくる。これは放置された別荘地に市が課している最小限の維持・管理であるように、毎年初に委託申込の受付を促すために送ってくるN不動産の案内には、記載されている。

 因みに、この場所に家を建てて最初の晩春に筍がどの程度の密度と頻度で生えるものか、実体験した時のことを記しておこう。五月の初旬に四日ばかり滞在していたのだが、竹林に囲われた家の周りには、想定もしていなかったような場所から筍は生えてくるのだ。園芸用の小さなスコップを持って頭を出したばかりの筍の太い胴回りの土を掘り下げていく。そして地下茎に行き着いた辺りで、筍を前後左右に揺らしながら深く折れる節目を探っていく。こうして筍が観念しそうな程合いを見計って、強く胴を捻じ伏せると「ポキッ」と音を立てて、いわゆる筍が掘れるのである。三泊四日の滞在で、都合十二本を獲っただろうか。昨日は何も生えていなかった場所に、翌朝、突然、筍は頭を出すのだ。無論放っておけば、それは凄い勢いで竹になる。早朝、朝露に濡れる叢を見渡しながら、昨日は何もなかった地面の微かな勃興に眼を凝らしながら、それを見つけるとスコップを片手に掘りに庭に出ることになる。竹とのいわば生存競争のようなもので、決して油断はできない。茹でた筍に舌鼓を打つ、というのは副次的な余禄、だと言っていいほどの「闘い」なのだ。こうして、竹に囲われた土地を35年間に亘り維持・管理してくれたN不動産を決して恨んではいけない、とその時に再認識した(たとえ副収入があった、として…でもある)。

 さて、売却を含むこの土地の処分を未だ検討していた際に、一度、現地を訪れたことがあった。N不動産に車での案内を頼むと、分譲した土地はもう関係ありません、とばかり断られてしまったので、仕方なく外房線の最寄の駅から6キロの道のりを内陸に向けて歩くことにした。晩春の駅に降り立つと、上り・下りともに1時間に1本程度の各駅停車しか止まらないだけあって、乗降客も疎らで、駅前には、そんな乗降客の出迎え・見送りの自家用車が数台止まるほどの車寄せがあるばかりだった。そんな駅に降り立つと、亡父が土地を購入した際に残した五万分の一の地図を頼りに駅前から歩き始める。

 駅前の通りの入口には「○○商店街」という立派なアーチが掛っているが、商店街とは名ばかりで数軒ばかりの商店しかない道を抜けると、県道に出る。県道には確かに古い米屋とか雑貨店などがいくつか並んでいる。地図によれば、これを道なりに西に向かえば、目的地に辿りつける。県道は片側1車線の細い道で、歩道はない。住民の足代わりとなっている軽自動車が、道の隅の歩行者の脇を、あたかも歩行者など気付いていなかのように、傍若無人にエンジン音を唸らせながら高速で走り去る度に、ヒヤリとさせられる。運転手の大半は老人で、ハンドル捌きも怪しげなので、ふらつきながら走る車に、いつ轢かれてもおかしくない恐怖に都度駆られるのだ。街並みを抜けると、県道は、なだらかに曲折しながら、植えたばかりの稲の苗が水田の煌めく晩春の陽の下で、心地よい風に戦ぐ風景の中にただ延びていく。こうして新緑に満たされた道を、時に車に脅かされながらとぼとぼと歩いていく。時々、岬中学の学生と思しき少年がヘルメットに制服姿で、自転車に乗って軽快に追い抜いていく。彼らは、こうした余所者にも必ず「こんにちは」と声を掛けていく。都心には見られない教育である。あるいは、余所者への警告なのかもしれないが。
 こうして田畑や林を抜けながら1時間余り歩いたところで、県道を左に逸れると大きな杉木立に覆われた道筋を辿っていく。まるで軽井沢辺りの林道を歩いているような心地になりながら歩いていくと、左右に大きな豪農と思しき屋敷が続き、やがて杉木立が切れる辺り、その土地を切り売りしたと思しき分譲地が現れる。いかにも都会から移住してきた人の住まうようなログハウスなど、数軒の新しい家を通り過ぎて、その家の一軒の細い脇道を右に折れていくと竹林が見えてくる。後に建築を依頼した建築会社が、土地図面をもとに登記を調査してくれたところでは、竹林の北側に住まう豪農が南側の土地の一部をN不動産に売却し、これを3区画に分けて別荘地として分譲販売したものだということが分かった。亡父はその一番北側の竹林に接した土地を買ったのだ。
 細い脇道を右奥に入って、遺された土地図面と見較べて見ると、北側から続く鬱蒼とした竹林がどうも父が買った土地らしい。年2回の草刈りが施されているとはいえ、35年間放置されてきたその竹林は入口さえ見当たらず、落ち葉が堆肥のように積った悪い足場に気をつけながら、蜘蛛の巣を被りながら竹の間から中に入ると、確かに草刈りの施された平坦な土地が開けている。初夏に近い日差しの田舎道を歩き続けて汗だくになったシャツに、竹林を吹き抜ける涼しい風が心地よく冷気を遺していく。竹に覆われた空を見上げれば、陽差しも竹林に程良く遮られ、風が吹く度に竹の葉枝の戦ぐ音、そして時に竹同士が叩き合って立てる甲高い音が心地よく響いてくる。この始末に負えない厄介者の土地に今まで抱いていた蟠りが、この時すうっと引いて、竹林の風に心の静寂を得る心地よさに満たされていった。
 父が遺したこの場所に来てみるまでは、建物を建てることなど想定もしていなかったのに、こんな場所に余生の読書を過ごす寂れた棲み家があっても悪くはないな、とふと思った瞬間であった。
(ブログ 「竹林の風―岬町こと始め ③ 」 2017.6.11.より再掲)

岬町こと始め ② 「行き場のない土地」

 十三年前に父は逝き、行き場のなくなった外房の竹林が相続財産として遺された。

 私は一人っ子なので、実家とこの土地を母とニ分の一づつ相続登記した。私自身も数年後に定年を迎える身となり、それなりに身辺を整理する時節を迎えた。先ずは、辺鄙で利用価値のない竹林の土地(但し登記上は「宅地」である)の売却を考える必要がある。父の遺品の中から出てきた、この土地の売買記録から、N不動産に電話をしてみることにした。バブルが潰え去るとともに、N不動産も外房の別荘地デベロッパーとしての役割を終えたものらしく、既に東京の事務所も閉鎖して、大原の本社で細々と現地の不動産業を営んでいるようだった。
 直接N不動産に電話で聞いてみると、バブル崩壊後、外房の別荘地は価格の下落も去ることながら、人気も衰え、とても買い手がつく状況ではない、と人ごとのように言う。既に売却済みの分譲地については責任は負えない、というニュアンスである。まあ、当時の営業マンが父にどのようなセールストークを使ったかなど、息子の私が知る由もないので、N不動産を介した売却は難しそうだ、と諦めることにした。
 どうせ売却できないのであれば、合法的に第三者に所有権を移転する方法はないか、と考えてみた。一番分かり易い方法は、市に土地を寄贈するということだろう。それなりに利用価値のある土地なら話は別だが、一般の小規模宅地を市に寄贈したところで、市としても固定資産税収入が減るだけで何のメリットもないため、応諾しない、とネットに書いてあった。そうなれば、最後の手段だ。固定資産税の未納を続ければ、土地は差し押さえられ競売に掛けられるのではないか。こちらも既にネットを見ると回答が出ている。固定資産税の未納差し押さえは私が所有する他の資産から始まり、対象固定資産の差し押さえは一番優先順位が低い。つまり、この土地が差し押さえられて競売に掛けられる頃には、私は無一文になってしまう、ということになる。
 こうして殆ど、絶望に近い状況に陥った矢先、母が「千葉の土地を売ってくれる、という人から電話があった」というので、半信半疑、実家を訪ねてきたその人に母と一緒に話しを聞くことにした。
 来訪者は痩せた目つきに落ち着きのない初老の女性だった。私から名刺を差し出すと、女性はコピー紙にワープロを転写したものを名刺サイズに切ったような名刺をくれた。女性の会社は「不動産業」ではなく「コンサルタント会社」であり、所有する土地の近辺の土地の所有者と連名で「委託契約」を結び、まとまった土地単位で広告を出し、実際の売買に際しては地元の不動産業が手続きを行う、という説明だった。委託主は業務委託料として広告代金や他の所有者との交渉に係る交通費等の実費を支払う、と契約に定めがある、という。
 そもそも怪しげな名刺に加えて、不動産免許も持っていない業者がどうして土地の売買仲介ができるのだろう、という疑問が膨らみ、私は即座に断った。女は出された茶菓子を慌てて頬張ると、最後に煙草を一服吹かして帰っていった。
 その後、再び似たような電話が母のところに掛ってきた。私が折り返し話しを聞くと、前回の女性とほぼ同様の内容を説明するので、改めて断ったのだが、これは何か変だと思って、消費者センターのホームページを検索してみる。すると、バブルの頃に購入しながら転売できない別荘地の持ち主を、登記簿で調べ、広告で買主を探すと称し、広告掲載料が10万円しかかからないような媒体紙に広告を掲載し、100万円を請求するような詐欺が横行している、しかも外房方面の売れない別荘地をターゲットとしているケースが多い、とある。それほどに、転売できない別荘地を持て余している所有者が多いのであろう。
 さて、定年を控えた私には一方で解決しなければならない問題があった。それは、過去2回の海外赴任の結果、倉庫に約三千冊の蔵書と、預け入れたままになっている家具類が眠っているのである。転出する際に預け入れた家具に、帰任の際に持ち帰った家具は小さなマンションには入りきらず、一時的に倉庫に保管することになる。これが二回も重なって、年間の保管料は数十万円にも上っていた。処分するなどして保管料を削減しなくてはならない。
 しかし、私にとって本は捨てるに偲びない掛けがえのない宝物である。この癖は、どうやら編集者であった父親譲りのものらしい。母は父のこの蔵書癖が余程気に入らなかったものらしく、父の没後、母は父の厖大な蔵書の殆どを「紙ごみ」として処分してしまった。ついでに、実家に置いてきた私の貴重な石川淳全集まで処分されてしまい、相当に落胆したものだった。
 この三千冊の蔵書の半分以上は未読である。それは老後の楽しみのためにとってあるのだ。と、その瞬間、ふと父の言葉を耳元に聞いたような気がした。処分しきれない、岬町の竹林に簡単な書斎兼書庫を建て、そこに現在倉庫に眠っている家具と蔵書を収蔵すればよかろう、と。家具類はベッドやソファー、テーブルを始め、一式揃っているので、家電を除いて新たに買い足すものはない。一挙両得というものである。
 こう思いついて、岬町の竹林に簡単な書斎兼書庫を建てる決心をした。
(ブログ 「行き場のない土地―岬町こと始め ② 」 2017.6.11.より再掲)

岬町こと始め ① 「父の夢破れ」

 今からかれこれ35年前のことである。丁度私が社会人になった前後の時期にあたる。自宅の一戸建てのローンを55歳で完済した父は、あるひとつの老後の夢を実現しようと考える。父は津軽という寒冷地で18歳までを過ごして上京した。その後、東京の大学を出て、東京の出版社に勤め、後5年で定年を迎えることになる。父がローンの完済期限を55歳にしたのは、ローンを組んだ時点での定年は55歳だったからだと想像している。その後、日本人の平均余命は伸び、年金制度の逼迫も相俟って、定年は60歳に延長された。父には「5年の猶予」が与えられたのだ。

 父の思い描いた「夢」とは温暖な外房に老後の隠居場を持つことだったらしい。父はどうしたツテを辿ったものか、大原に本社を持つ別荘地を専門に扱うN不動産の池袋支店を尋ね、具体的な別荘地の物色を始めた。勿論、外房に別荘を持つなら、太平洋を見渡せる海縁りの高台の土地がいいに決まっている。物持ちの良い父の遺品からは、N不動産が作成した複数の別荘地の販売物件の地図と地面図が出てくる。いくつかの候補を見て歩いたのだと想像される。
 しかし、父はどうも海沿いの別荘地の購入を諦めたようだ。塩害を心配したのか、地震による津波を怖れたのか、あるいは価格で折り合いがつかなかったのかも知れない。多分、価格の問題が先にあって、いや塩害が、とか津波が、とかN不動産に説得されて、外房線の特急も止まらない鄙びた駅から、更に田畑の続く平野を奥地に6キロ程も入った竹林の80坪ほどの土地を購った。記録によれば、当時(80年台初頭)の金額にして500百万円である。その購入資金の一部を父は定年の60歳までのローンで賄った。どうも、バブルを目前に控えたこの時期は、外房の別荘地がある種のブームになっていて、父は相対的に高い買い物をしたように思われる。
 …と、ここまでの話しは、残された書類や、認知症で既に昔の記憶が曖昧になりかけた母の証言をもとに想定したものに過ぎない。父は既に13年前、78歳で他界しており、その真意を確認すべき術は最早残されていないからだ。残されたのは辺鄙な遠隔地の80坪の竹林だけである。父は「独断の人」であったから、この土地の購入時に息子の私にも何の相談も予告もなかった。一緒に土地を見て回った筈の母にでさえ、その事実も理由も伝えていなかったらしい(こちらは既に記憶が曖昧なので定かではないが)。
 父の土地購入後、一時はバブルで外房の土地も値上がりした筈だが、所詮最初から投機目的ではなかったから、父は老後の隠居を夢見てその土地を手離すことはなかった。しかし、バブルは弾け、この国中の土地という土地が脱兎の勢いで値を下げる中、とりたててロケーションに魅力のない別荘地の価格は二束三文まで下落してしまった。父もそれは知っていたに違いないが、購入した土地の権利書が紙きれ同然になっても既に手の打ちようはなかったのだろう。
 こうして、自らその土地を処理することもなく、父は逝ってしまった。それにしても…と思う。60歳で隠居する積り「だった筈」の父は死ぬまで働き続けた。温暖な外房での安穏な生活を思い描いていたのではなかったのか。定年後は勤めていた出版社に受付や清掃員を派遣する派遣子会社の社長になったが、社長とは名ばかりで、あばら屋のように傾いた事務所で、やはり定年後に職を得た老齢の事務職と二人で、5~6名の派遣社員を抱え、細々とした会社の経営にあたっていたのだ。
 父は何故、死ぬまで働き続けたのか。それは解明できない永遠の謎なのだが、ひとつだけ思い当たることがある。「金の卵」という言葉が使われた70年代、父の働いていた出版社でも特に営業・事務系の人材が逼迫していた。父は自らが卒業した津軽の高校の同窓会の役員をしていた関係で、同高卒の社員を数年に亘り7~8人出版社に紹介し採用させていた。
 上京後は、彼らの父親代わりとして休日は自宅に招いて飲食を供したり、娯楽の少ない時代、深夜・早朝まで麻雀卓を囲む等の世話を焼いた。更には、当然のことながら、彼らの結婚の仲人をして文字通り「親代わり」の面倒を見ていたのだ。その中に、結果的に最後まで独身を貫いていた一人の男がいた。他の同窓生が家庭を持ち、定例の週末の集いから逸脱していく中、彼は父と競馬に興じるようになった。もともと賭け事の嫌いではない父は、彼と一緒に競馬場に通うようになり、その内、彼に電話をして馬券を買うようになった。
 どうも、いつしか彼は「のみ行為」の胴元に近い存在になっていたようだ。父がそれを知っていたのかどうかは定かではないが、毎週末になると彼に電話で馬券を申し込んでいた。彼は父のいた出版社の経理部に勤めていた。そして数年後、彼が会社の金を横領していた事実が発覚して逮捕・起訴され、有罪となった。横領金額は億単位であり、その時はテレビニュースでも報道される大事件となった。
 父は家庭では、この事件の経緯や顛末、会社における父の管理責任の所在等については一切語らなかった。しかし、紹介者は父自身であったし、ましてや「親代わり」としての管理責任も不問であったとは思えない。その後、刑期を終えて出所した彼は横領金額を少しづつ会社に返済し続けている、と風の噂に耳にしたこともあるし、父も退職金の一部を返上し、あるいは定年後も働くことで「会社への債務」を信義上返済していたのかもしれない。つまり、父が死ぬまで働いていたのは、自らの咎に対する贖罪ではなかったのだろうか。
 家庭では決して多くを語らず、寧ろ寡黙を貫いた父ではあったが、いすみ市岬町の竹林が、手つかずで遺された原因は、案外そんなところにあったような気がしている。

(ブログ  「父の夢破れ―岬町こと始め ① 」  2017.6.9.より再掲)

 35年前、今は亡き父が老後の隠棲を夢みて購った外房の別荘地。父は夢果たすこともなく生涯働き詰めで77歳の生涯を終え、往き場のない土地が遺された。外房とはいえ内陸の何の変哲もない竹林に買い手のつく筈もないまま、私自身の定年が目前に迫る。

 ふと気づけば二度の海外赴任で倉庫に預け入れた4,000冊に及ぶ蔵書と洋家具一式。老後の生計に倉庫代も莫迦にならぬことに思い至り、この地に書庫兼書斎を建てて収蔵する。表札に「書圃・唐変木」を掲げ、肩書潰えし退職後の閑居となすべし。

 最寄のスーパーまで徒歩1時間半。コンビニの1件もなく不便この上もない場所ながら、蔵書に囲まれ、竹林そよぐ風音聴きながら終日読書に浸るもまたよい。しかし、社会的動物である人間は、やはり何処かに人との繋がりを求めざらんものと見える。そんな、外房はいすみ市岬町の生活を徒然に綴っていこうと思う。

Powered by Flips
編 集