エッセイ


則天と悔恨 (3) ― 懲役36年の後始末 ⑨

投稿日時:2019/06/12 21:20


 事の発端は、現在も巷間の耳目を集めているフランス人経営者Aが、当時破綻寸前の日本のB自動車会社にフランスメーカーの支援出資の下にCEOとして送り込まれたことに始まる。私の所属する会社が、永らくB社のグローバルでの専任広告会社であったことから、オランダでは欧州向け広告を欧米系C広告会社との合弁により制作・実施していた。しかし、Aは広告の効率化を狙い、(合弁等の手法によらずに)グローバル一社で対応しうる専任広告会社を再選定しようとしたのだ。これを敏感に察知したC社より合弁会社に出向していたフランス人幹部は、合弁相手の当社に事前に何の相談もなく勝手にB社の欧州統括会社にプレゼンテーションを行った。これは、最終的にC社が独自に「日本市場」を含めたグローバル対応のイニシアティブを取るための布石であった。C社はM&Aによって日本にも小さな現法を擁していたのだ。かくして、そのプレゼン費用、数億円が突然損失としてオランダ合弁会社に計上されることになった。帰任早々、私はその対応に大わらわとなった。プレゼンにかかった費用の大半はそのC社の関連会社の制作人件費である。即ち、合弁を組んでいる私の所属する会社は、出資に応じて損失の半分を負担することになるが、C社はグループ全体として見れば、何の腹も痛んでいない。こうした経緯から、アメリカからの帰任先の組織は、過剰負担の見直しを迫るべく、合弁相手に徹底抗戦で交渉に臨む方針を既に固めていた。

 しかし、経営層はこのC社の提案に乗じて、日本でC社との合弁会社を作り、B社のACEOよりグローバルの扱いを獲得することを目論んだ。C社の日本現法は小さすぎて、日本の特殊な広告市場では媒体枠の買付けに支障が生じる、ことなど、グローバル基準で発想で、この「自社抜け駆け」の戦略を目論んでいたC社の経営陣には、想像も及ばぬことだった。C社との経営層レベルでの合議の結果、日本に50%づつの合弁で「グローバル会社」のヘッドクオーター会社(HQ)を設立し、アメリカはC社100%、日本は私が所属する会社100%、欧州は既にある合弁をもとに50%づつの合弁会社としてACEOにプレゼンした結果、同じく日本市場の特殊性に対する認識不足を理解したACEOも納得のうえ、扱い継続を得ることに成功した。C社は一方で、この新スキームへの移行を前提に、旧オランダ会社で発生した損失の50%負担を求め、私の所属する会社はこれを飲まざるを得なくなった。外資系広告会社の資本優先の論理に、日本の企業の「義」の論理が敗北した瞬間だった。この決定に、立場上C社との徹底抗戦を覚悟していた私は、帰任早々敗北感に打ちひしがれることになった。

 ところが、帰任後僅か数か月、新たに日本にC社と設立することになるこの合弁会社の管理部長としての辞令を受ける。外資系化した得意先B社に対峙することになるHQは、日本人とC社より派遣される欧米人の混成部隊となるため、海外現法での管理経験が求められたためだろう。一方で、私にはC社とのオランダ合弁の損失補填を巡る内情を知り、C社のアグレッシブな海外戦略を真の当りにしている苦い経験がある。HQの社長はC社より派遣されたアメリカ人、会長はもともとB社担当の営業部門長(しかも全く英語のコミュニケーションができない)が着任することが内定している。直観的にこの合弁はC社のイニシアティブで進むことが予見された。50%づつの合弁とは言いながらも、HQの社長とB社のACEOおよびそのフランス人経営幹部との強固な関係により、C社による利益誘導が当社の利益より間違いなく優先されるに違いないからだ。つまり、C社はこの扱いの主導権を握ることにより、そのグローバルの扱いを「人質」に、私の帰属会社自体に食指を伸ばしてくるに違いない。いわば「軒先を貸して、母屋を盗られる」ことになる。

 だが、こうした危機感は、かつて真剣にグローバルビジネスに取り組んだことのない経営層には全く理解されなかった。C社とビジネス上の役割分担について英語で直接交渉できる役員も存在しない。かくして、私は合弁HQの管理部長という立場にありながら、あたかも私の所属する会社を代表する交渉当事者のような立場に立たされることになった。C社のCFOは広告会社とは無縁な、C社の持ち株会社(投資会社)から派遣されたユダヤ人である。彼の頭の中には広告戦略の良し悪しを忖度する意思は微塵もなく、存在するのは弱肉強食の資本の論理だけだ。私は連日のように所属する会社の経営層と議論を繰り返しながら、外資取引に伴う危機感を理解してもらうことを最優先に、その資本侵略を防ぎ、B社との取引における主導権を確保するスキームを如何に作り上げていくかに腐心しながら、彼らの経営判断を誘導した上で、これをC社のCFOと前面に立って交渉する。C社のCFOは「お前は合弁HQの管理部長に過ぎない」と分を超えた私の行動を牽制をしながらも、構造の実態を知悉していたが故に、私の要請にも丁寧に耳を傾けてくれた。とは言え、所詮は全く異質な利害当事者の間で板挟みになっている状況に変りはない。

 2年間、この状況が続いた。当初の想定通り、全てはC社の利益優先に共同事業は進みながらも、しかるべき牽制を何とか利かせながら、合弁相互の思惑のバランスのとれたビジネス・スキームが固まりつつある頃だった。今度は、HQ傘下の日本会社の管理部長への異動が命ぜられた。もともとは(新興財閥としての歴史を持つ)典型的な日本的企業であるB社に対応する営業部隊として存在していた私の所属する会社の組織であるが、当然のことながら得意先の外資系化に相伴して、この営業部隊である100%子会社においても「外資系化」への変革が求められていた。だが、この2年間で顕著になったのは、HQとB社フランス人幹部、日本会社とB社日本人担当者、という紐帯の二重構造の中で、B社内でもわが社内でも抜き差し難い内部対立構造が残存していた、ということだった。異動先の日本会社の社長も担当役員のいずれも新任となり、私と同じ海外現法経験者が前任者と交代し、外資系対応会社としての脱皮を図る狙いがあったのだ。

 しかし、これは外資系企業と日本企業との間隙に挟まれることよりも苦しいことだった。新社長は当然のことながら論理的に納得できない経営施策には裁可を与えない。しかし、B社の担当者と私の所属する会社の担当者との間の取引は、未だにコテコテの日本的商慣習に則りながら継続している。更には、HQの方針を日本会社に浸透させようとすれば、営業現場には、これに対する不信感がこのビジネス・スキーム構築後2年間に亘って根強く醸成され続けている。私はかねてよりのポリシーに従って新社長を最大限補佐したが、現場との調整に徒に時間を要した結果、月170時間超の超過勤務が6ヶ月間続き、とうとうメンタルダウンしてしまった。心療内科で鬱病と診断され約3ヶ月会社を休み、その後閑職へと異動になった。これと前後して、新任の子会社社長も担当役員も更迭されたことを知ることになる。私たちの新な試みは失敗に終わった。余りに急ぎ過ぎたのかもしれない。だが、昨今、A氏の所業が過去に遡って暴露されるのを見るにつけて、早々に、私の所属する会社の経営層に「外資」への危機感を煽っておいたことは、決して無駄ではなかったのだ、と思えてならない。

 この挫折の結果、私の家庭はボロボロになった。鬱病になった私を妻は見捨てて家を出ていった。復帰出社後も半年は抗鬱剤が手離せず、殆ど仕事らしい仕事に手が付かなかった。時を経ず、父が胆管癌に倒れ逝去した。私は既に46歳になっていた。私が入社直後に銘とした「則天去私」のポリシーは、此処に完全に破綻したようだ。36年を経て、私が去ったこの会社には、既に我利我利亡者にしか、出世の道は残されていないように見えてならない。42歳にして最大の難関にサラリーマン人生を賭した結果、私は見事に敗北したのだ。だが、今にして妙に悔恨はない。迷走せずに自らの信念を貫いたという自負があるからだ。この大いなる挫折から14年を経て定年を迎え、同期の一人は社長になり、数名が役員に連なって活躍している。私には信条の異なる他人に迎合してまで、自らの保身や昇進を縋る意思は毛頭なかった。これでいいのだ、という確信に至るのには紆余曲折を経ながらも、やはりその後に得た「或る救い」があったからに相違ない。36年間のサラリーマン人生を終えたばかりの、この人生の折り返し時点でも言えるのは「人生の貸借は最後にバランスする」ということではないか、と思っている。私はやはり、初任経理の人間だったのだなぁ、と今更ながらに感慨に耽っている。



Powered by Flips