エッセイ


則天と悔恨 (2) ― 懲役36年の後始末 ⑧

投稿日時:2019/06/11 18:31


 もうひとつ社会人として大きな影響を受けたのが、このイベント・セクション時代の上司であった。経理の落ちこぼれに過ぎない私に対してさえ、部下の美点を最大限に引き出すべく接してくれた。この上司も高卒だったが、叩き上げの苦労人に加え、現場の知恵を職務に活かすことの達人だった。決して偉ぶることもなく、直面する難題には部下と共に学ぶ謙虚な姿勢で対処していった。事実、彼にとってもこの未知なる領域は過去の経験値では計り知れない広がりと深淵を持っていたのだろう。そして未経験の領域についてある程度知識を得ると、彼は大胆な仮説で与えられたいくつもの難題を切り拓いていった。それこそ百戦錬磨の経験が生んだ智慧であったのだ。契約金数十億円のミュージカルを輸入した際、その源泉税の一部を租税条約による非課税取引と論理武装し、税務署との交渉の結果、数千万円もの収益を獲得することもあった。

 管理部長としての彼のポリシーは、上司である部門長を女房役として万全に補佐すること、だった。彼と共に過ごした10年間には、叩けば埃の出るようなややいかがわしい部門長が着任したこともある。彼はそんな欠陥のある上司でさえも、その良い部分を可能な限り引き出すことにより、欠点を相殺して余りある補佐役を演じた。統率力のない部門長が着任した結果、組織内には反部門長勢力が伸長することになるが、彼はこうしたひとりひとりと酒酌み交わしながら、徹底的に議論を重ねたし、その場に付き合わされることこそ私の最大の勉強の機会でもあった。上司の欠点をあげつらいこれを批判することは容易だが、結果的に組織力を総体として低下させることになる。ましてや女房役としての彼がこれに加担することで、部門長は死に体となり、十全の組織運営ができなくなる、ということを彼は経験上知悉していた。

 こうしてイベント・セクションで10年の経験を積む内に、唐突にアメリカの現法の管理部長として異動すべし、という辞令が出た。私より先に声の掛った諸先輩は悉くこの内示を断った、という噂を耳にした。このアメリカ現法には、極めて評判の悪い社長が居たのだ。独断専横で他の日本からの出向社員に対して威圧的態度をとる。現法社員に対しても威を笠に着た横柄な態度をとる。その結果、解雇した現法社員から幾つもの雇用訴訟を受けている。実は私の前任者もこの社長と反りが合わず、帰任させられることとなった結果、私に白羽の矢が立ったという経緯である。こうした評判を東京で耳にしながら、1週間で帰ってくる程の悲痛な覚悟でニューヨークに着任した。内示の受諾の前に、ひとつ自分に課したことがあった。他人の評判は一旦棚上げにして、自分なりにこの社長の人品骨柄を見極めてやろう、と決意したのだ。彼が評判通りの人物であれば、喩え一週間で帰任しても悔いはない。ただ、その判断は自らの心眼を以て為すべし、と決めたのだった。

 かくして、着任直後、この社長と差しで酒を酌み交わしながら訥々と聞かされた社長の話で、私は全ての事情を理解した。彼は当初、現法のロス支社長に赴任した。さて、支社の人心掌握をせんと、現法社員との懇親会を催した正に翌日、唐突にリストラの指示がニューヨークの社長より下ることになる。心理的に親しくなったばかりの現法社員に解雇を通告するという辛酸を繰り返し舐め、現法社員との距離の取り方を痛感したのだ。そのリストラの要因となったのは、副社長クラスで送り込まれている日本人出向社員同士が抗争する派閥の構造であった。それは競争心を持ちながら経営成績を上げようとする局面を既に通り越し、自らの派閥に帰属する現法社員を日本人リーダーが厚遇し、露骨な猟官と依怙贔屓が横行する。自分の派閥の得意先で架空業績を計上し、不良債権が膨らむ。他の派閥の日本人リーダーの悪口を言いあうことで日本人経営者に対する現法社員の不信感が醸成される。そんな惨憺たる局面の中で、前社長は経営を投げ出し、彼が支社長から社長に昇格した、否応なくさせられたのだった。

 新社長として先ず派閥を形成していた日本人副社長どもを押さえつける。そして彼らに表面的にのみ忠誠を誓うアメリカ人の現法社員幹部を厳しく監視し、不正ある時は、これを庇う日本人副社長自らに有無を言わさず解雇を促す(この過程の副社長の不用意な差別発言が雇用訴訟の要因になった)。社内の不正は微塵も許さない。更には、対出向社員と対アメリカ人で態度を反転させる、現地採用日本人社員の動向に対して細心の注意を払い、可能な限りこれを削減していく。彼らの二枚舌が組織内の齟齬を増幅していくという弊害が見過ごせないためである。こうした施策の結果、彼は社内のあらゆる社員を敵に回さざるを得なくなる。これに止まらず、現地法人という本社とは異なる組織の論理に対して、自らの論理を強要してくる本社にも対峙せざるを得ない。つまり、本社にも多くの敵を作ることになるのだ。私の前任者はこうした使命に耐えられず、社長に反旗を翻した。

 私はイベント・セクション時代の上司を見習い、この社長を100%補佐することを決意した。先ず、甘い事業計画に基づきマンハッタン一等地に100人規模で設けたオフィスのサブリースを手掛けた。数億円に近い年次の赤字の大半は、当時50名弱しか社員の在籍していない、この贅沢過ぎるオフィスの賃貸料によって生じている。10年のリースの内未だ8年が残る真新しいオフィスをサブリースに出し、より家賃の安いオフィスに移転することになる(アメリカでは賃貸契約を借主側がキャンセルすることはできない)。8年分の受払家賃の差額は一括して損失で計上するのだ。5月の着任早々にこの作業に取り組み、秋口には移転を完了することができた。更には人員のリストラの継続。前管理部長を手玉に取っていた現地採用の初老の日本人女性を手始めに、数十人規模の現法社員を解雇するのと並行して、徒に増えた日本人出向者の数も減らしていく。最終的には20名を切る程の社員で切り盛りしていくことになった。こうした苦節の結果、過去二十数年続いてきた現法の単年度赤字は、着任翌年から5年間黒字化することができたのだ。

 社長とはほぼ毎日のように終業後社長室で膝突合せビールを酌み交わしながら、更には帰宅途中も飲み屋に立ち寄って、経営上の様々な課題について飽くことなく議論を重ねた。厳しい環境下にも拘わらず、この在任期間6年半は、人生で最大の充電期間であった、と今でも疑わない。社長も偶々私と同じく 開高健 を愛読し、その心根、繊細なるが故に猜疑心が強く、あたかもシェイクスピア描くオセロを目の当たりにするようであった。だがその猜疑心こそが、現法の陥りやすい最も危険なリスク(例えば、ハラスメント、雇用訴訟、差別など)を未然に防ぐことになったのだ、と今でも信じている。私自身の人間観もこれを契機に性悪説へと随分と傾いたといえるかもしれない。この社長とは1年半ほど一緒に仕事をした後、彼は日本に帰任することになる。だが、私自身の在任の6年半の間、現法経営の重要な判断において、東京在勤となったこの社長のアドバイスを求めなかったことはない。この間、危くセクハラで訴えられそうになった新社長を半年で帰任させたこともあるが、これも彼のアドバイスに従ったに過ぎない。

 かくして、6年半の後、長引くリストラの継続と日系企業の予算の先細りによって、遂にアメリカ現法の業態は細りゆき、最終的には自らをリストラして帰任することになった。その時、当時の社長が見送りの空港で私に耳打ちしたのは、欧米系の広告会社と合弁で経営するオランダの現法で突然、数億円もの巨額損失が出た、という事件だった。まさに、私はその現法をコントロールするセクションに帰任しようとしていたのだ。



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