エッセイ


則天と悔恨 (1) ― 懲役36年の後始末 ⑦

投稿日時:2019/06/10 20:50


 本シリーズ「喫水線を下げよ!(1)」に記したような幸運に恵まれ、入社した広告会社での36年間の「懲役」は決して順風満帆ではなかった。初任は経理。広告会社に入社して誰が経理配属を希望するだろう。実は、広告会社の前に出版取次大手に内定をもらっていた。その内定者懇談会にまで出席した後の方向転換であった。出版社に就職したいという希望に頑に反対したのは、他でもない出版社で編集局長まで勤めた父であった。自らの苦労と辛酸を子には味あわせたくない、という親心からの猛反対と永年思い続けてきたが、或は私の才能の欠如を見抜いていたのか、と父の没後になってしみじみと感じている。父は名伯楽であったに違いない。その代替として、出版取次会社を推奨した。日本に未だに残る出版再販制度は、国際的には類を見ない定価維持のための独占制度であるが、例えば一冊300円の岩波文庫が、北海道・稚内でも都心でも同価格で入手できるのは、出版社と書店の間に介在する出版取次が、遠方への輸送コストを相殺しているためだ、と聞いた時に、日本の出版文化の多様性に出版取次の果たす社会的使命を感じたのである。36年前、インターネットが然程発達していない時代、マーケティングを駆使することで、こうした民主主義を支える文化インフラに貢献できないだろうか、という正義感に燃えた、そんな夢を抱いた青い時代であった。

 広告もこれに近似した側面を持っている。財・サービスと呼ばれる「商品」には開発企業の血の滲む「モノがたり」が存在し、その商品開発のコンセプトを生活者に手渡しすることが広告会社の「マーケティング」(現在では「ストラテジック・プランニング」と呼ばれているが)の使命である。出版社勤務の父のコネクションを使って、出版取次大手の内定を貰っていながら、広告会社に応募したのにはそんな理由がある。つまりマーケティング部門配属希望で広告会社に応募し、貧窮生活を実写したつまらない作文のヒットだけで内定を得てしまったのである。(相当にオッチョコチョイな会社、ではある。)

 だが、やはり広告会社の実務は甘くはなかった。二か月に及ぶ新人研修でこうした才能を開花させて会社にアピールする機会に恵まれることはなかった。今にして思えばこの期間は、自分を希望職種に売り込むための重要なプレゼンテーション期間だったのである。にも拘わらずほぼ毎日のように研修が終わると同期の連中と飲んだくれて遊び廻っていた。毎日通い詰めていた会社の近所の酒場のオーナーの娘を嫁にするのでは、という噂がたった程であった。時節は、将にバブル経済の入口であった。銀座、赤坂、六本木、界隈を何かに憑りつかれたように仲間と遊びまくった。無論、大抵は宿酔で這う這うの体で翌日は始業時間に間に合うのが精一杯だったのだ。その結果が、初任経理配属である。誠しやかに、大学で金時計を拝受した秀才、という噂がたてられ、一層腐っていた。

 経理の一年先輩に、京都大学を卒業した秀才がいた。彼は、徹底したレジスタントだった。優秀に業務をこなしながらも常に職場に馴染まず反抗的な態度で上司や同僚に接していた。職場に、同期の親しいクリエーターを呼びつけては、自分はこんな職場で一生を終える人材ではないことをアピールするかの如くであった。そんな先輩に半ば親近感を抱きつつ、半ば疑問を抱きながら数か月を過ごした。そしてその先輩は一年も経たず国内支社の経理へと転勤となった。一方、上司の覚えめでたき優秀な三年先輩は、それと前後してアメリカ支社へと転勤になった。見た目には栄転に見えるが、決して本人の望まぬ海外勤務であった、と記憶している。入社一年目にして、人生の双六を見ているような気分にさせられた。自らの配属のみならず、先輩の生きざまを見ても、組織の中に在っては自分は歯車のひとつとして、意に沿わぬ異動にも諾々とせざるを得ない、それがサラリーマンの宿命であることを痛感させられたのだ。

 初任の上司は商業高校卒の経理のプロだった。いわば叩き上げの管理職である。学歴には何の偏見も持っていなかった。寧ろ、未経験の専門領域で、職務をこなすには、いかに高卒の上司とはいえ、教わることは山ほど存在する。経理の「いろはのい」からこの上司に叩き込まれたことを未だに感謝している。智は現場から学ぶものである。観念や学識から演繹されるものではない、ということを体験を以て痛感した。三年足らずのこの経験は、新人の社会人にとって決定的なオリエンテーションになった。そして、如何に不本意な、あるいは分不相応な人事であろうとも、決して拒否はしない、という思想を植え付けられる契機となったのだ。三年後、広告会社にとっては「周縁」ともいうべきイベント・セクションの管理部門に異動となった時にも、湧き上がったのは開拓者精神に似た挑戦への意欲であった。それほどに肉体的にも精神的にも若かったのだろう、と今、思い起している。

 このイベント・セクションで、様々な人間の機微を含めて充実した十年間を過ごした。初任配属をマイナスとして余りあるプラスを与えてくれた十年間だった、と思う。敢えて自分自身を含めて、周囲は「広告会社のあぶれ者」たち。だが、バブル絶頂期を迎え、企業メセナ、或は広告宣伝費のプロモーション活用という名目のもとに、企業のイベント予算は鰻登りの拡大・成長を見せていた時代の潮流に乗ったのだ。と同時に、周囲の異色なスタッフとの交流は、私に或る夢を惹起させることになった。正にそれは、小説の題材になるべき人々の集団であったのだ。異動後4年経った頃だろうか、急性肝炎で入院を余儀なくさせられるハプニングを経て、小説の習作を書き始めたのは、こうした職場環境に身を置いていたからに他ならない。



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