エッセイ


喪われた記憶 ― 懲役36年の後始末 ⑥

投稿日時:2019/04/09 22:30


 サラリーマン人生における最大の挫折を経験した時、私は47歳を迎えていた(その事はまた後に詳しく述べることになるだろう)。目くるめく様々な転機を迎え、人生の帳尻を合わせるかの如く二度目の海外転勤の機会を得たのは、前年に父を亡くした2005年の事だった。母は、(私は一人っ子なので父亡き後の)独居も厭わず、「お前のやりたいように(海外で)やっくればいいよ」と、後顧の憂いを抱かせることなく私をドイツへと送り出した。母に最初の異変が起きたのは、そのドイツ赴任中の3年半の間のことである。

 敗戦時10歳までの年月を、津軽の比較的裕福な林檎園の次女として育った母は、占領軍アメリカの価値観一色に染まった終戦直後の日本の首都・東京に出ることを夢見ていた。そんな母の憧れは、映画 『ローマの休日』 の オードリー・ヘップバーンだった。祖父母の反対を押し切って、新制高校を卒業後、東京の洋裁専門学校に入学して寮生活を始めた。そう、母の目指していたものは、寒く貧しい津軽の対極に存在していた、豊かでチャンスに恵まれた「アメリカ」とその疑似都市・東京だったのだ。洋裁学校を卒業して一旦、実家に戻った母だったが、父親同士の知己により、東京に出ていた同じ津軽の放蕩息子と見合い結婚をして、間髪を置かずに上京した。母にとって大切だったのは、結婚相手よりはおそらく自らの「暮らす場所」だったに違いない。

 母は授かった一人息子の手が離れる頃には(それ以前にも内職でミシンを踏んでいたのだが)、近所の洋裁店で洋裁の仕事を始めた。それから60年近く、母は常に家事をこなしながら職業を持ち続けた婦人であった。一人息子の私は、横濱郊外の田舎町に父が建てた家を包み込むような自然の中に、鍵っ子として放置される儘となったのだが。御茶ノ水の出版社に勤める父は、この横濱の片田舎から、何と片道2時間を掛けて出勤を続け、やがてこれを口実に帰宅しない日が続くようになった。外泊先に、とある女性の影が重なり、家庭内の諍いも絶えることがなくなった。時には、一週間ぶりに帰宅した父に包丁を向けた母を小学校3年生の私が、背中から羽交い絞めにして押し留めたことさえある。果たせず舌を噛み切ろうとした母の口にタオルを押し込んだ生々しい記憶は今も褪せることはない。首都圏に住む、という憧れの結果生じたこの悲惨な状況の中、母にとってこの仮面家族は、決して「幸福な家庭」ではなかった筈だった。

 そんな父であれ、外見上は夫唱婦随の関係を母が貫き通したのも、津軽女の忍耐力か、もしくは津軽の「じょっぱり」(意地っぱり)の為せる業だったのかもしれない。一度故郷を捨てる決心をした者の矜持もあっただろう。父が2004年に76歳で他界するまで、母は戦後の「職業婦人」の草分けと良妻賢母を演じ続けた。69歳にしての寡婦、そして息子の二度目の海外勤務による独居生活である。既に20年前に独立して横濱に住んでいた私が翌年ドイツに赴任する際も、淋しそうな顔ひとつ見せず送り出してくれた、気丈な母であった。

 ドイツ赴任中に、母を呼寄せ便で招待しようとしたのは、帰任も決まった2008年のことだった。チケットも用意し、母もスーツケースに荷を詰めて出掛けるばかりとなっていた時、突然、眩暈に似た発作で倒れて海外に出る自信を喪失し、旅行は中止となった。後の診断によれば、これは軽い脳内出血の発作で、脳のMRIの際にその痕跡が認められている。帰任の準備に気持ちと時間を割かれていた私は、特に気にも留めていなかった出来事だったが、これが母の認知症の前兆であった。そんな母に目に見える異変が生じ始めるのは、2008年の帰任後暫く経ってからの事である。横濱に住む私たち夫婦と数か月に一回程度、中華街で共に食事をするために東中野の実家から通っていたのだが、ある日、唐突に電車に乗ることが怖くなって来れなくなる。そして、東京に出向いて一緒に食事をする際も、同じ事を繰り返し話すようになる。少し以前の出来事が思い起こせない。最初は、老人特有の記憶障害だと高を括っていたのだが。実は、母の母親、つまり私の祖母も最後は認知症になっているし、母の年の離れた上の姉も十余年間、認知症の悪化により特別養護老人ホームで暮らしていた。その伯母が2012年に亡くなった直後、決して弱音を吐いたことのなかった母が、唐突に独居の不安を語り始めたのである。東京医大病院の高齢診療科で脳のMRIの精密検査を受けた結果、中程度のアルツハイマー型・脳血管性の混合型認知症と診断されたのは、それから間もなくのことであった。

 米独の赴任の10年間を挟んで延べ14年間続いた横濱での生活を切り上げ、母の独居する実家の近くにマンションを借りて転居したのは、6年半前のことになる。最初のうちは週末ごとに近隣の居酒屋に連れ出して、母の無上の喜びである麦酒を飲み交わしていたのだが、やがてそこまで出歩くのも苦痛になり始め、数十メートル離れた我が家に招き食事を共にした時期も少なからず続いた。だが、食道裂孔ヘルニアを併発していた母は、横隔膜の圧迫で心臓に負担がかかり、最早その数十メートル程の距離さえ歩くことが辛くなって、それまで続けていた老人会のコーラスや自治会の役員を全て断って、家に閉じ籠り勝ちとなった。介護保険申請の結果、「要介護1」と認定され、週3回のデイサービス、週3回のヘルパー派遣、毎日の宅配弁当に加え、週2回程度はシチュー等の煮物に加えてパスタや焼きそばを作っては実家に持ち込んだ。私が定年前10ヶ月でフリー勤務を選択したのも、こうした母の切迫した病状の悪化が理由だった。これも父が逝って後十余年間、海外勤務を含む仕事を優先させ、独居に耐えてもらった母への唯一の報恩のつもりである。

 介護保険でカバーしうる最大限の支援を受けながら、母の自立した生活を可能な限り維持したかった。そんな中、最も危機感を持ったのは金銭管理であった。実家に母の様子を見にいくと、玄関に発砲スチロールの箱が放置され、大量の海産物が冷蔵庫の中に仕舞ってある。着払いで送られてきた納品書を見ると、一万数千円という信じられない価格が記載されている。市販のものを買えばどんなに高くても数千円という代物だ。本人に確認すると、電話で売り込みがあり、言われるがままに発注をしてしまったようだが、全く要領を得ない。無論、それを自ら調理して食べることなどできる状態ではなく大体は腐らせてしまう。こんな事が数回あった後、流石に業を煮やした私は、直接その業者に電話をかけて事情を説明し、以降、勧誘しないように依頼した。だが、暫くして今度は別の業者が同じような方法でモノを売りつけてくる。恐らくはこうした認知症の老人をターゲットにした売り込みリストが既にあちらこちらに出回っているに違いない。私は慌てて50年近く使い続けてきた実家の電話番号を変更する手続きをとった。

 その後もクーリングオフは後を絶たない。既にA新聞を宅配してもらっているのにY新聞が売り込みに来ると平気で契約してしまう。牛乳の宅配もしかり(母は牛乳を飲まない)。更には生命保険である。相続対策もあるのだろうか。殆ど払い込み金額が返ってくるだけの多額の生命保険に契約させられ、慌ててクーリングオフを行った。食べもしない同じものを買い込んで冷蔵庫で腐らせてしまう程度ならいざ知らず、掛け捨てで月額数万円にのぼる保険料をぼったくる生命保険や(80歳の老人に!)、数百万円に及ぶ一括払込みの保険契約には流石に危機感を抱いた。離職直後、老人内科の医師の勧めに従って、少し時間のできた私自身が母の後見人となる「成年後見人」の手続きを家庭裁判所に行った(非常に時間と手間のかかる作業ではあったが)。かくして母の資産管理及び契約行為は全て私が代行することになった。電話番号の変更の結果、詐欺まがいの勧誘は殆どなくなった後ではあったが。

 肉親が次第に明晰な判断力や記憶を喪っていくのを見ているのは辛いものである。だが、自らの記憶や判断力の喪失に一番苛立っているのは他ならぬ本人であることを忘れてはならない。本人の失態に決して周囲が苛立ってはいけない。しかし、頭では分かってはいるものの、これはなかなか励行できるものではないのだ。ねじめ正一が、認知症の母から罵声を浴びながらもその全てを受け入れることを決意し、実際の介護経験を小説化した 『認知の母にキッスされ』 を読んで、自らの未熟さを思い知らされた。認知症の患者には患者なりの「文脈」がある。例えば「徘徊」にもそれなりの理由があって、既に退職した会社に出勤しようとする男性患者に対しては、それを無暗に制止するのではなく一緒に随行していく程の寛容さが求められるのだ。ねじめ正一は詩人・作家として、認知症によって「他者」となった肉親の抱える(理解し難い)文脈にどれほど寄り添えるか、を自らに課したといっていいだろう。

 母には記憶がない。脳のMRI検査の結果、高齢診療科の専門医による診断は、母の「海馬(かいば)」に顕著な萎縮が見られるということだった。人間の記憶は、直近の記憶が一旦「海馬」にファイルされる。そして睡眠時にそこで仕分けされ、必要な記憶だけが大脳へと転送され(不要な記憶や嫌な記憶はそこで捨象されることになる)、生命の維持に必要な情報としてストックされていく。つまりその直近の記憶を収蔵するファイルが壊れてしまっているので、大脳に記憶として残されるものはなくなる。母の症状も、最初は著しい記憶障害から始まり、妄想などの認知障害はさほど顕著ではなかった。逆に直近の記憶が喪われてしまうため(30分前に電話で約束したことすら忘れてしまう)、旧い記憶だけが繰り返し繰り返し大脳の中に再現されることになる。それを彼女なりの「文脈」で理解するならば、繰り言も決して不自然なことではないのである。

 母の同じ話を繰り返し繰り返し忍耐強く聞きながら、「母は現在に生きているのだ」と思い至るようになった。記憶と切り離された意識とは一体どのようなものだろう。日々「あれは、こうすればよかった」とか「こんなことをしなければよかった」と悔やむこともない。ある意味では過去と切り離され、未来にのみ開かれた世界に生きているとも思える。いや、実は「未来」も彼女には存在しないのである。何故なら、未来は常に過去のミラー・イメージとして存在するからだ。つまり、私たちは過去の延長線上に初めて「未来」を想起することができるのであって、意識が過去から切り離されると、未来をイメージすることも不可能となる。つまり、母には文字通り「現在」しか存在しないのである。それは「刹那的に生きる」という事ともまた異なるだろう。彼女の83年の間に培われてきた道徳観や倫理観は確たる古層をなして、行動を規範として拘束する。それは、将来に確実に聳えている壁のような「死」という概念から切り離された「達観」に近いものなのかもしれない。時に母の白髪の顔が修業に耐えた仏僧の如き趣きを湛えるのも、その所為なのだろう。

 そんな母も失禁を繰り返すようになり、また週3回のデイサービスへの通所が苦痛になりはじめたところで、幸いにも、1年ほど前から申込みを続けてきたいくつかのグループホームの一つへの入所が叶うことになった。その施設が偶々、同じ町内で、私の通い慣れた小学校の近くにあるため、母の記憶にも残った場所だったことも幸いしたようだ。自宅を離れ施設に入ることに抵抗感を持つことを危惧していたが、説明する度に納得している様子だった(すぐに忘れてしまう、のだが)。事実、通所サービスの移動自体に余程苦痛を感じていたのだろう。入所してからは、相当に気持ちも楽になったようで、時々面会に訪ねると、以前の笑顔と饒舌が戻ってくるようになった。だが、ねじめ正一も書いているように、施設への入所を、決して結末と考えてはいけない。今後の病状の変化によっては病院に入院させなければならないし、症状が進んで「要介護3」になった場合には、医療体制の整った特別養護老人ホームへの転所も考えなくてはならなくなるからだ。つまり、これはまだ「序の口」なのである。

 36年間のサラリーマン生活によって犠牲にしたものは数知れない。そのひとつ、罪滅ぼしのために母の恩に報いるべき行いは、未だ尽きることを知らない。

 



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