エッセイ


喫水線を下げよ!(2) ― 懲役36年の後始末 ⑤

投稿日時:2019/03/29 13:23


 二度に亘る海外勤務と42歳以降の激務は着実に身体を蝕んでいた、と思う。慢性腎臓病は腎臓の濾過装置が目詰まりを起こすもので、現状の医療技術では回復できない。進行を止める対処療法だけである。その引き金となったであろう36年間の過食と過飲をこの期に及んで繰り返す積りはない。今でも食レポ番組を見ればそれなりに食指を動かされるが、離職前のように日々のストレスを発散させるために、身入りに応じた贅沢を繰り返す意欲も潰えた。逆に、一日塩分6グラム、タンパク質50グラム、エネルギー1,600キロカロリーという食餌療法が、病状の進行を止める無二の手段だということに洗脳を受けている。検査結果が悪いと、腎臓内科の医師から懲罰的に「栄養指導」を受けさせられる。その都度「食事日誌」をつけさせられるのである。食餌療法の励行は、在勤中はなかなか辛いことだったが(ストレスが増えれば、つい過食・過飲となってしまうからだ)、比較的ストレス・フリーとなった現在では、それほど難しいことではない。因みに、この食餌療法の一回当りの食事の目安は次の通りである。肉・魚で約50グラム。魚の切り身で言えば半分程度、牛肉のステーキであれば厚み1センチで5センチ四方といったところ。塩気は加熱前に浸透させるのではなく、食べる前に塩もしくは減塩醤油を一振り。飯は減タンパク米を軽く一膳。因みに普通の米の飯一膳にはなんと約5グラムのタンパク質が含まれている(これが、病院の栄養指導で最も衝撃を受けた事実だった)。つまりこれを一日、三膳食べただけで既に15グラムものタンパク質を摂取してしまうことになるのだ。一方、減タンパク米は0.5グラム程度のタンパク質しか含まれていない(無論、不味い)。後は、味付けしない野菜類で食物繊維を多く摂取してお腹を満たすこと。大豆のタンパク質は蔑ろにできないので、味噌汁はだめ。薄味の吸い物程度、ということになる。かくしてダウンサイジングの第一歩は、食生活から始まる。

 「物を買う」という行為自体にも既に執着はない。以前は旅行に出かけては、それこそ陶器や漆器、雑貨等を買い漁ったものだが、「断捨離」の世代を迎え、モノを増やすことへの欲望は急速に薄れつつある。物忘れが酷くなった効用といえるだろうか、時々思い出したようにサイドボードや食器棚の隅を漁っているうちに、(昔買ったものを見つけて)思わぬ再発見をすることがある。日常生活をする上で機能的に必要な最低限のものは勿論揃っていて、気分に応じてバリエーションを替えてみる程度のストックは、十分に家内に揃っている。物欲から離れた分だけ、内省的な世界に遊べば良いのである。

 唯一の趣味と言えば、本を読むこと、いや、本を買うこと、もっと正確に言えば本をコレクションすること、である。一人っ子の鍵っ子として放置された少年は、自然のままの山野に動植物の知己を得ることと、生きとし生ける彼らと想像の中で遊び繋がることで人界の孤独を紛らわせた。長じて、そんな自然との接点が失われゆく世代を迎え、その代替として本の中に想像力を沸き立たせてくれる世界を見出していった。本という未知なるひとつの部屋に一旦分け入ると、新たな想像力が呼び起こされ、次の部屋へと続く扉を開いてくれる。だから、私の本のコレクションは、支離滅裂に見えてそれぞれが常にあるテーマで相互に何等かの連関を持って繋がっている。勿論、買ったまま未読の本もかなりの数で存在している。特に関心を持った作家の全集などはそうである。これからも私が訪ねるべき部屋は、扉の向こう側に無数に拡がっていると言っていい。そこには永遠に開かれた宇宙がある。

 3年前、定年を目前にある決心をした。父が外房に遺した別荘地に書庫兼書斎(「書圃・唐変木」と呼んでいる)を建てることにしたのだ。その経緯については、本ブログの「岬町ことはじめ」シリーズに詳細に記している。これもある意味では、定年後を見据えたものだった。つまり、物欲を離れ、再び未知の部屋を巡るこころの旅に出掛けるための空間づくりである。年老いて足が弱ることを前提に、敢えて平屋とした戸建に、約6,000冊を収容できる書棚のついた書圃を作った。実に不謹慎ではあるが、大震災の際に本棚に埋もれて亡くなった方のニュースを聴くにつけ、私も死ぬ時はかくありたいと願ってしまうのである。私の実家には、編集者であった父が特別に造作した作り付けの書庫があったのだが、私のベッドはその書庫の中に据えられていた(他にスペースがない程の狭い家だったからなのだが)。子どもの頃より文字通り「本の中で育った」いや、本の中に育てられてしまったのだから致し方のないことである。多分、私は死ぬ直前まで、あるいは死を迎えるその瞬間も、この書圃の中で、辿り得る最後の部屋に至る扉を敲いているに違いない。

 母は父が亡くなると、その蔵書の大半を処分した。余程、父の蔵書癖に腹を立てていたのだろう。寧ろ本を憎悪していた、と言っても過言ではない。少しでもその蔵書に敬意を表するのであれば、しかるべき古書店を呼んで一括引き取りで幾許かの金員を受けてこれを託すべきものだろうと思うが、幾週間も掛って「燃えるごみの日」に、父の蔵書をごみと一緒に並べて捨てていたという(私がドイツに赴任して不在でなければ、絶対に止めていたに違いない)。ついでに実家に残し置いた、大学時代に読破し大切にしていた私の「石川淳全集」まで一緒に捨てられてしまっていた。冗談半分に笑いながら、「ごみに出した瞬間に、誰かが持っていったわよ。」という母の話を聞いて(当たり前だ!古書店に売れば、せめて数千円の金員にはなる)、私は母に対する敬意を90%喪ったものだった。だが、問題の本質は、配偶者にこのような強迫観念を植え付けた父の方にあるだろう。父も私同様、「本の捨てられぬ人」であったのだ。

 中央線沿線には、なかなか個性的な古本屋が揃っていることは、穂村弘や木内昇の記す所だが、実は私も阿佐ヶ谷のK堂という古書店に眼をつけている。一ヶ月に一度はその店を訪れるのだが、私の蔵書のかなりの割合をその店の商品が占めている。つまり、K堂の書棚を見ていると「あっ、この本、この前新刊書店で買ってしまったよぉ」とか「よくこんな本、置いてあるなぁ、ウチにもあるけど」といったことが頻繁に起こるのである。ということは、新聞広告や書評で見たり、あるいは新刊書店で迷った挙句買わなかった本にも、この古書店で巡り合うケースが多い訳で、一度この店に足を踏み入れると、10冊は下らない古書を提げて帰ることになる。かくして私はK堂の主人の慧眼を信じて止まないものである。勿論、店頭には以下の如き貼り紙が掲げてあるのだ。

 『無料で出張買取致します。一括引取お申し付けください。』 

 かくして、私亡き後は、K堂に出張買取を申し入れるよう、家人には伝えてある。阿佐ヶ谷より遠く外房へと来てもらいたい。

 書圃のあるいすみ市岬町は里山である。小高い丘の谷あいに夷隅川の蛇行でできた盆地が内陸に向けて広がり、水田や野菜畑、果樹園の中に棲み、自然と共存する慎ましい生活が営まれている場所である。「岬町ことはじめ」にも書いた通り、父が別荘地として何故この地を選択したのかは、全く判然としないが、結果的には父の「遺志を継いで」この地に書圃が築き得たことは私にとって、父からの最も歓迎すべき福音だった、と今では信じて止まない。

 人は住まう場所に何等かの拘束を受けるものだ。都会にあれば都会のしがらみの中で息を詰まらせながら生活しなくてはならない。それは人間関係のみならず、都会に住めば、例えば高くて不味い野菜を日用することをも含めた「束縛」である。漸く、最近になって「デュアラー」という言葉が流行るようになったが、こうした二重生活こそ束縛から解き放たれる最善の手段かもしれない(逆に言えば、里山の生活にもそれなりのしがらみがある、という意味である)。

 勿論、二重生活にはダブル・コストという問題はあるにせよ(例えば電気・ガス等の基本料金など)、それにも増して物欲を離れ内面の世界に遊ぶ機会を与えてくれる。それは人間が浪費をする背景には「飽きる」という性癖が潜んでいるからなのだろう。毎日、同じ場所の同じ部屋に閉塞されているからこそ、時には旅に出て気を紛らわせてみたくなる。同じスーパーで同じ食材で似たような夕餉を囲んでいるからこそ、時には外食で気分を変えてみたくなる。二重生活をしていれば、飽きたら他所に移りさえすれば、それだけで随分といい気分転換になるものなのだ。里山に来れば地場の季節の食材を楽しむことができる。春には鶯の声で目覚める。竹林を戦ぐ風の音を聞きながら静かに読書に没頭できる。そして、里山の暮らしに飽きれば、また刺激を求めて、都会の暮らしに戻ればいいのだ。

 溢れ返った物を処分する方法も多様化してきている。ヤフオクやメルカリを使って買い溜めてきた食器や雑貨を売ることもできる。ベイス・ネットショップを利用して手持ちの蔵書で古本屋を開くことさえ可能な時代になったのだ。「断捨離」で、持ち物を捨てるだけが能ではないだろう。購入時の投資金額を回収するということよりも、所有物を有効に再利用することで、成熟社会の新しい経済のパラダイムを拓く一助になる、と考えた方がいいだろう。定年後の「職のありかた」を考えた時に、そんな活動を通じた社会との繋がり方、というのもあるのかもしれない。

 喫水線というものがある。荷を積み過ぎた船は喫水線が甲板に近付き復原力を失い転覆し易くなる。徐々に荷を減らしていくことにより喫水線が下がり、船は健全な復原力を回復していくのだ。定年後の生活、というのは多分、この喫水線を下げていくことなのだ、と思う。



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