エッセイ


喫水線を下げよ!(1) ― 懲役36年の後始末 ④

投稿日時:2019/03/29 10:26


 大学3年の暮近く、母の長期入院で父との二人だけの生活になったのが契機となって、一人暮らしを決意した。ある晩のこと、理由さえよく覚えていないが、つまらぬ事で父と殴り合いの喧嘩になったのだ。翌年の春休み、平和島にある学研の倉庫でアルバイトして溜めた資金を元手に、板橋本町の路地を入った四畳半一間・炊事場付のみの、家賃一万三千円の古アパート(大学生協の仲介による格安物件だった)に引っ越した。近所の写真現像屋での夜3時間のアルバイトで月約五万円。流石にそれでは不足なので、月三万円程度の仕送りを受けていた、と記憶している。月約八万円の生活費。そこから家賃のみならず、食費も大学までの交通費も、銭湯代も酒・煙草代も全て賄うのは至難の業であった(流石に学費は親に依存するという体たらくではあったのだが…)。

 毎月20日のアルバイト代支払日の一週間前には持ち金が底を尽き始める。貧乏学生よろしく1箱の価格が一番安いショートホープ10本入りを吸っていたが、この時期になると灰皿に溜まったシケモクに手を伸ばし、更にはその吸殻を解して薄紙のチラシに捲いて吸っては咽ていた。米は最安の外米(タイ国米)。黄色い米粒が混ざっていて冷麦のようでいいな、と当時は楽しんでいたのだが、後にこれは非常に危険な発癌性の黴だと知った。持ち金が少なくなると、米とコロッケさえ買えず、5個100円のインスタント麺、卵、キャベツで何とか餓えを凌いだ。かくして一週間を千円で乗り切ったこともある。

 実は、36年間在籍することになった広告会社の入社試験の作文の題が「千円」だった。当時、紙幣切り替えで見慣れた伊藤博文の肖像が夏目漱石に交代するという発表直後だったので、それを書いた学生が多かったようだが、私は一週間を千円で過ごした経験を書いた。バイト代支給直前の或る日、銭湯の帰りがけ、インスタント麺と卵とキャベツを夕餉の材料に買って行こうとするその足が、ふと古本屋の前で止まる。店頭の50円の棚上に古びたボードレールの詩集を見つけ、それに読み耽る。そうだ、今日は夕飯一食を諦めて、この本を買っていこう、と主人公は古本屋に入っていく。……という脚色をつけた。この作文は相当に受けたらしい。入社後、採点者をしたという学者肌の先輩社員に突然声を掛けられた。君は、あの作文で入社したようなものだ、と。

 話は横道に逸れてしまったが、このような窮乏生活は半年しか持たなかった。大学四年となり就職活動が始まると、電話もなく、そして都内に実家がありながら両親と別居している理由を問われかねない状況を是正せざるを得なくなったからである。就職活動解禁となる10月(当時は実にのんびりした時代だった)前には実家に戻ることになった。しかし、この半年の生活はある自信を抱かせてくれた。どんなに窮乏した経済状況であれ、何とか生活に耐えられる、と。

 しかし、就職後36年間の生活は贅肉が雪だるまのように膨らむ機会に満ちたものだった。入社数年後からバブル景気が始まる。2ケタ月数の賞与が出て、毎晩深夜まで銀座、赤坂、六本木で飲みまくり、仕事はそこそこにこなしながらも、札束が空から尽きることなく降ってくるような感覚だった。そして93年、日本のバブルが沈みかけた頃、不運にも(?)ニューヨーク赴任を申し渡され、今度は6年半に亘ってアメリカのバブル景気の洗礼を受けることになる。当時、海外赴任者の海外給与は国内給与をベースに物価水準と為替で修正され、かつ住居費は会社持ちであったから、それでなくてもバブリーな生活だった。そこに来て遅れて来たアメリカ・バブル経済の真只中へと降下したのである。2000年初頭に帰任して、生活の余りの落差に唖然とした原因の一端はここにある。

 だが、帰任時42歳。私自身のサラリーマン生活で最も脂の乗り切った時期でもあった。成果主義を採用した人事制度の中で年齢に不相応な程の成果報酬を享受していたのも事実である。だが、仕事の上の躓きは、階段を転げ落ちるように年収の減少をもたらしていった。

 その後一時は、3年半ばかりはドイツ赴任で再び海外赴任者の恩恵を被ることになったが、51歳で帰任してからは、ある程度生活を自制しながら暮らすことを余儀なくされた。とはいえ、会社は世間水準に較べれば相対的に給与は高く、一方でストレスも少なくはない中、稼ぐことと、稼ぐことによるストレスを発散するための消費のバランスが悪循環しながら、出費の蛇口は緩んだままだった、と言えるだろう。59歳2ヶ月でフリー勤務(社員資格のまま出社しなくていい状態)を選択したことで、数百万円の年収が減る。そして退職後、63歳の年金支給開始まで、貯蓄の取り崩しと家賃収入で、限界収入は更にその約三分の二。それに応じた「生活のリサイズ」を行う必要があるのは当然のことである。

 退職直前になって、もうひとつ大きな選択を迫られることになった。会社が偶々、私の退職する年の4月から確定給付年金を確定拠出年金に移行することになったのだ。既にフリー勤務に入っていた私は、3月末で退職すれば確定給付年金の資格を維持することができ、予定通り8月末での定年退職とすれば確定拠出年金の適用を受けることになる。確定給付年金を選択すれば、60歳以降、年利3%運用相当の年金の給付を終身にわたり約束される一方で、確定拠出年金を選択した場合は、4月1日時点で60歳までの3%想定運用益を現積立額に上乗せした上で、以降は自己責任で運用を図ることになる。定年を目前に控えた同僚の多くは、確定給付年金を選択するために早期退職を選択した。だが、確定給付年金は安定した収入が確約される一方で、年齢による受給額が決まっていて、繰り延べなどの変更が利かない。一方、確定拠出年金は、リスクが伴う一方で、受給年齢の繰り延べにより、「困った時点」から受給を開始することが可能で、金額の融通も利き、しかも本人死亡時に残余分を配偶者が受け取ることができる。もうひとつ大切なことは、この切り替えが60歳に近い程、将来の年金原資の減少に対するリスクが軽減されているということである。何故なら、現時点での積立額と想定運用額との差額を会社が一時金として上乗せしてくれるからだ。定年を控えた私は、60歳以降のリスクだけをコントロールすればいい(若年層は60歳までと、それ以降の双方のリスクを自らコントロールする)ことになる。

 こう考えた末、確定拠出年金を選択し、8月末の退職を決めた。退職金を含めた預貯金の取り崩しで可能な限り受給開始を繰り延べることにしたのだ。十年前、ドイツからの帰任直後、慢性腎臓病の診断を受ける以前に、高血圧、高脂血症、高尿酸症は30代、40代からの継続して蓄積された持病の地層である。そう長生きをする当てもなければ、資産を相続すべき子どもがいる訳でもない。介護を必要とする母は自らを養う程度の資産は保有している。これらを考慮した時、「年金は必要になってから」貰うことが望ましい、と考えたのである。

 確定拠出年金の受給を繰り延べしたもうひとつの理由は、「生活のダウンサイジング」を意識的に行うことだった。限られた預貯金の中で、将来の年金額に応じた規模まで支出を抑えるのを計画的に行うことで、徒らに収入まで支出を浪費することを避けようと考えたのである。そして、まず月々の固定費の積算から始めた。健康保険料、マンションの管理費、光熱給水費、情報通信費、保管・修繕費、医療費、理容・美容費、交通費、そして年額支出の月額換算、固定資産税、住民税、損害保険料……といった不可避な支出を求められる費目である。そしてその合計額と、月額収入(預貯金取り崩し定額プラス家賃収入)との差額が、飲食費を含む生活費ということになる。書籍を多目に購入する月は、外食を減らして食費を切り詰めればいい。旅行などある程度纏まった支出を見込む時は、数か月に亘る生活費削減の計画を立てることが必要になる。

 これは、まさに「入りを以て出を制する」ことに腐心した下宿時代の知恵と同じである。今の時点では万一の場合、預貯金の取り崩しを増やせばいいだけだが、3年後、本格的な年金生活に入るとそれもできなくなる、という覚悟が必要なのだ。とはいえ、急なダウンサイジングは難しい。そのための助走期間が、失業保険の受給期間だった、と言っていいだろう。この5ヶ月の期間は月額約20万円の収入の上乗せがある。その中で、退職直後の想定外の臨時支出(一年遅れの住民税の負担など)を賄いながら、徐々に目標の経常支出へと収斂させていくことができるのだ。

 かくして、学生時代の一週間「千円」の生活も、まんざら捨てた経験でもないものだ、と思えるのである。



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