エッセイ


されどわれらが日々 (2) ― 懲役36年の後始末 ③

投稿日時:2019/03/28 15:15


 ハローワークの求人票をつらつらと眺めながら、自分なりに決意した求職活動にあたっての基本方針は以下の二つだ。一つは、36年間私企業に勤めてきたのだから小規模でも公益に貢献する法人にターゲットを絞り、如何なる職種・給与であろうともその法人の社会貢献に資することを是とする。二つ目は、失業保険受給が目的ではなく「本気で求職活動」を行う姿勢を貫き続ける。それが応募する組織への最低限の礼儀であると考えたからだ。

 さて、最初に応募したのは、CSR(企業の社会的責任)関連の公益社団法人の経理・総務系の事務職募集である。並行して受講した「就職支援セミナー」の講師によれば第一次選考・書類審査、第二次選考・面接(場合によっては筆記試験)というのが一般的だが、打率は二次選考までが2割程度(だから、とにかく多目に応募しろ、という意図らしい)、ということだ。ハローワークの作成したテンプレートに従って作成した履歴書と職務経歴書に、この社団法人の個別課題である「作文」を添えて送ってみることにした。全く期待していなかったのだが、広告会社でイベント関連の管理業務をしていた経歴に興味を抱かれたものか、数日後電話が掛ってきて面接に出向くことになる。

 久し振りにスーツにネクタイ姿の緊張した面持ちで、指定された時間にこの社団法人を訪ねると、ホームページで下調べした役員一覧の理事に名を連ねる事務局長が、独り通された会議室に直接入ってきた。この女性事務局長はCSR界でも名を成した大手メーカーの元CSR室長で、一瞬緊張したが、偉ぶったところもなく物腰も柔らかで、CSRについての意見を訪ねながら適確な受け答えをする中にも、彼女の下での整然とした職制を想像させ、次第にその魅力に惹きつけられていった。ただし、彼女が拘っていたのは、この職場が20名ばかりの女性ばかりの職場であること(それは単なる偶然、と力説していたが)、そして管理職も経験した人間が本当にこの職務と給与で満足できるのか、という点であった。無論、これは想定内の質問であって、予め準備した答えを丁寧に返した。

 さて、和やかな雰囲気で面談が終了したと思ったら、これから筆記試験を行う、という(求人票には書いてなかったぞ)。スマホを預けさせられ、簡単な国語、算数、英語そしてCSR関連資料から読み取った市場環境分析を書かされる。本当に久し振りの筆記試験(マークシートは通関士の国家試験で2度ばかり経験しているが)に、文字通り冷や汗をかかされた。

 面接試験が終り、一週間ばかり外房の書圃に籠って、再び読書三昧の生活に入ったのだが、なかなか読書に没頭することができない。面接での一問一答が脳裡にこびり付いて離れないのだ。あの質問には、こう答えるべきだった。その質問には自分の経験に即して旨く答えることができた。…など、文字通り新卒生の就活気分である。そしてもう一つの不安が過る。採用が決まったとして、安穏とした生活を送っている自分が、本当にやっていけるのだろうか。「就職支援セミナー」の講師も、退職後の再就職は、規則正しい生活が継続する範囲で、早ければ早い程いい。逆に採用する側も、失業期間のブランクの長さを採用のマイナス要素と見做している。言われてみれば、アメリカで部下の経理スタッフの面接をした際も、採用する側の経験値として履歴書上当然考慮に入れていた点だ。定年退職前に実は10ヶ月のブランクがあることは面接の際に説明していない。

 求職活動のストレス発散のための書圃滞在であったが、この「是非、働いてみたい」と「採用されたらどうしよう」のアンビヴァレントな感情が抜き差し難く襲ってきた。帰宅して数日後「不採用」の書簡を受け取った時の、落胆と解放感の入り混じった妙な気持ちが今でも忘れられない。

 因みにこの面接で得た大切な教訓は、求人票には性別指定の応募が記載できない、ということだ。年齢制限は定年と業務の習熟期間を勘案して上限を設定することはできるらしい(アメリカでは、法律上、性別も年齢も顔写真も履歴書には記載されない)。例えば、職場構成で全員が女性であったり、敢えて職務の中に「お茶汲み」(!)との記載があるなどの場合は、男性の応募を拒否していると考えていい。この事務局長もマネジメントの立場として、流石に女性だけの職場に一人の男性を採用することが憚かられたのは事実だろう。つまり、最初からハードルの高い応募だった、ということになる。

 こうして5ヶ月間、求職活動が継続した。特定非営利活動法人、公益財団法人、協同組合、公官庁。書類応募が10件、内、二次選考(面接)が4件であるから、まあ、健闘した方だろう。実はこの間、採用通知を1件辞退している。

 たまたま同時期に、ある生涯教育の公益財団法人と、特別区の出損になる文化施設運営関連の外郭団体の公益財団法人を併願することになった。第二次選考の面接日も一日違い。文化施設運営関連の公益財団法人の面接の感触が良く、また自分としてもそちらに興味をそそられていたため、この最終通知が来る前にメールで届いた教育関係の公益社団法人の内定通知を(返答期限が迫っていたため)丁重に断ることになってしまったのだ。あるいは、「採用されたらどうしよう」という意識が潜在的に働いたのかもしれない。

 面接を受けていて気付いたのは、募集する側には募集している職種以外に空席のポジションが存在することもある、ということだった。求人票での応募は全て経理・総務・人事を中心とした事務職系の募集に絞ったのだが、面接の席で、それ以外の専門職のオファーを(可能性として)受けたのも、偶然、この二つの公益財団法人だった。そこで求人の需給が嵌ることが有り得るというのも、また「就職の縁」と言えるのかもしれない。

 求職活動末期に(活動履歴の加算のために)受けた、応募書類の書き方に関するマンツーマンのセミナー(約50分)で、それほど歳の離れていないキャリアコンサルタントが、こんな話をしていた。いち私企業で定年まで36年間働き、どんな職種・給与でもいいから社会的貢献のできる組織に再就職したい、という気持ちはよく理解できる。が、職務経歴書を見ると、当然、採用する側はオーバースペックだと躊躇するだろう。しかし、特に定年退職者の再就職は「縁」だと思って、気長に活動を続けた方がいい。必ず、貴方の考え方に共感してくれる求人先が現れてくる、と信じて。……正に、辞退してしまった公益財団法人は、そうした私を理解してくれた唯一の組織だったのかもしれない。

 起伏に富みながらも決して十全ではなかった36年間のサラリーマン生活、と考えてはいたものの、あるいは、その歳月から得たものの大きさを自分なりに過小評価していたのかもしれない。再就職に「本気で取り組む」と決意したものの、せっかく差し延べられた手に、最後の一歩を踏み出せなかったのは、やはり何処か真摯に働く意欲に欠けていたからなのだろう。

 たかが、36年。されどわれらが日々。



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