エッセイ


八月四日に生まれて(二)

投稿日時:2015/08/03 21:38


 ふと気づけば前回ブログを更新してから、既に年を越し八か月が経ってしまった。

 この間、末期とさえ思えた椎間板ヘルニアによる腰痛は鍼灸で何とか克服し、年明けと共に仕事は少し忙しくなり、連休を前に唐突に義父が逝き、高温多湿の梅雨に跋扈しはじめた家ダニに悩まされ、今年没後100年を迎えるアルフレッド・ジェラールに関するCATVの取材を受けたり、…と身辺に様々な出来事があり、また記すべき想いに少なからず駆られた筈だが、それを文字とせずに過ごした。

 自身にとっては大きなドラマを些事とさえ感じさせてしまうような 「大きな時代のうねり」 が私的経験の発露さえ覆っていたせいなのだろう、と思う。

 先日、40年来のファンである、高橋源一郎の講演会に出席してきた。近著 『ぼくらの民主主義なんだぜ』 の出版記念講演会である。聴衆は圧倒的に同世代より上のシニア達である。源ちゃん (と敢えて呼ばせて頂くのだが) はその日、偶々会った内田樹がこんな面白い仮説を語っていた、と言っていた。明治維新は薩長土肥による尊王革命であった。会津を始めとした佐幕派は戊辰戦争で「敗者」のレッテルを貼られ、その藩閥政治が転換期を迎えるのは、幕末からほぼ70年を経た大正デモクラシー、原敬の出現の頃である。それから「衆愚政治」が軍国主義を下支えし、敗戦から70年を経て「戦後レジュームからの脱却」を唱える 「長州出身の」 宰相Aが登場し、改めてその「転換」を図る。…なるほど、今やみるべくもないNHK大河ドラマ 『花燃ゆ』 の放映を強要したとされる宰相である。

 一昨年(それは偶々 「八月四日に生まれて」 をブログに記した翌年であったが)、大河ドラマに冷めていた身が久し振りに通年で 『八重の桜』 を見通した。内田樹流に語れば、それは「敗者から見た明治維新」に他ならなかった。その記憶失せぬが故に 『花燃ゆ』 は全くその対極=アンチ・テーゼとして制作されたとしか思えない。偶然にも三千年に近い「神国」を保持しえたこの国の中にも、アメリカの「南北戦争」に近い政治対立は存在していたことを痛感するのだ。

 自らの出自を語るも憚られるが、父方はアイヌの血を引く津軽人、だと考えている。歴史を測る自らの基準点として、沖縄民族とともに日本史の中で「被差別」を受けた縄文人マイノリティの血を引いているという自覚がある。数千年の時は移ろい、「民主主義」の時代が浸透した今、フツーの勤め人としての日々を送ってはいるものの、青森ねぶた祭りの囃子を聴けば跳人 (はねと) になった心持はするし、中野の夏の風物詩となった沖縄のチャンプルー・フェスタにも沸き立つ情感を抑えがたいのは、その故かと思ってみる。

 実は、こうして考えてみると、この八か月の 「空白」 は「政治状況によってもたらされた鬱状態」なのではないか、と思うようになってきた。毎夜のように 「ニュースステーション」 や 「NEWS 23」 でしか報道されない 「隠蔽されつつある事実」 の暴露に、テレビ画像に向って罵詈雑言を浴びせながら、個としての己の空しさの故に自己嫌悪に陥る日々を暮らし、どうして正常な精神状態を維持することができるだろうか。文学者は戦中戦後の 「過去の先達」 の作品に、その無力な反戦への忸怩たる思いを読み取ることができる。高橋源一郎のように、マル経の砦であった横国大経済学部を中退し、作家となってから、一切、政治的な発言を控えてきていたにも拘わらず、逡巡しながらも、4年間執筆し続けた「論壇時評」を同著として上梓した 「ほどの時代」 なのだ、今は…。

 このところ、数少ない執筆の機会は、fbの「おすすめの本」というコミュニティへの投稿である。こんな時代にあっても、読書好きは存在しているし、一般的なfbのユーザーに較べれば、やはり彼らは、活字を追いながら、きちんと物を考える習慣を身につけていると思う。やがては、ここに投稿した原稿を本HPにも転載したいと考えているが、「敗戦後70年」を経て、登場するのは 「あの時代」 を背景にした本が増えたような気がする。

 三年前 「八月四日に生まれて」 に記したように、ヒロシマ、ナガサキの原爆忌を目前にした、私自身の誕生日は、戦争の悲劇を語らずして避けることはできない、と考えている。戦後13年を経て生を享けた私自身の中にも、戦争の傷跡は、着実に疼いているのだ。多分、それは数多くの文学作品から得られた想像力によって芽生えた 「非戦の意思」 であろう。宰相Aには、そんな想像力さえ欠落しているのではないか、と思わされることは少なくない。

 改めて、戦後70年の 「八月四日に生まれて」 を記しておく必要性を感じたのは、この国が決して今後、自身を培ってきたような感性や想像力に基づく自浄作用によって、「過ちを繰り返す」道を軌道修正できないことを予知していることを、ここに備忘のために記すために他ならない。



Powered by Flips