エッセイ


晩秋・一葉の葉書

投稿日時:2015/11/07 08:33


 四月に逝去した義父の喪中葉書を投函したら、早々に中学時代の友人から一葉の葉書が届いた。言葉少なく 「PET検査までやりましたヨ」 とある。もう、酒は飲めない、とも書いてある。いや、書いてあるのは、それきりだけである。

 齢五十六、七ともなると身体は目に見えて衰えていく。それに伴い、気力も。「人生五十年」 とされた時代ならば既に老年である。寿命は延びたが 「健康寿命」 はさほど延びてもいない、ということは、ただ生かされる 「耐えられぬ時間」 が増えているだけだ、といえるのかもしれない。

 友人のひとことに共鳴したのは、自分自身も昨年から今年にかけて様々な体調の異変を経験しているからに他ならない。左腕の捻挫に始まり、ぎっくり腰、椎間板ヘルニアときてアトピー性皮膚炎。今まで十歳以上若く見られていた黒髪にも、白髪が目立つようになった。「恒常性」 の持つバランスが崩れはじめている。

 とはいえ、歳をとることはそれほど悪いことでもない。先日偶々試写会で観た 『アデライン、100年目の恋 ("The Age Od Adaline") 』 は恐らくは女性の不老願望の深層を描いたものだろうが、二重の意味で面白くなかった。永遠の若さが如何に苦痛かを痛感させられるだけではなく、そんな分かりきったことをテーマにすること自体が不愉快だったからだ。かつてのボーイフレンドの息子に恋をしたことがきっかけで、100年間止まり続けた彼女の年齢は再び29歳から時を刻み始めるのだが、そんな人生が幸福である筈がない。人生は 「限られていることに意味がある」 のだ、と思う。

 七十七歳でこの世を去った父は、モンゴル語の経典を翻訳・出版した高僧と知遇を得て、墓所もその僧がご住職をされている早稲田の浄土宗の寺院に定めた。月例の早朝勉強会に毎回顔を出し、仏教の教えに帰依していった。立花隆の臨死体験の本を読むと、死に直面した人間の脳内には一種の快楽物質が分泌され、苦痛を感じないようにできている、というようなことが書いてあるが、本来 「無宗教」 であった筈の父も、浄土宗の教えに臨死の 「救い」 を求めたものかもしれない。

 若年にして芭蕉に心酔したせいかもしれないが、不易流行の中でいち個人の死は恐るるに足らず、という意識が何処か心の片隅にある。それは人類の係累に包括され、更にそれは地球上の生命の永続性の一部に過ぎず、更にはある偶然により生み出された宇宙という現象の僅かな塵に過ぎない。

 「植物学的存在」という言葉は、山本周五郎が 『季節のない街』 の中で使った銘言だが、樹木の名を与えられた身としては、つとめて植物学的存在でありたい、と願っている。樹は実を結び、やがて朽ち果てようとも種は新たな樹を育んでいく。原生林はこうして、人類が生まれるはるか以前から、地球上に生命を育み続けてきたのだ。人間はその原生林の中の、目立たぬ一本の樹木であっていい。

 晩秋とともに広葉樹は色付き枯葉を落とすが、既にその枝には来る春に萌ゆる固い芽を宿している。こうして散り往く葉は朽ちるとも、季節とともに永遠に生命の営為は続いていく。

 そんな晩秋に友人から届いた一葉の葉書を読んで、そろそろ「身支度」を整えておこうか、と思うことも無駄ではあるまい。旅の空の下に落命した芭蕉は、文字通り、斃れるまで歩き、生き続けたひとであった。友人の短信にも、何故か、焦りはない。これを「達観」と呼ぶべきなのかもしれない。



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