エッセイ


「正弁丹吾亭」―『夫婦善哉』を携えて ①

投稿日時:2015/12/29 06:43


 東京ビルに通勤していた頃だから、かれこれ30年程前のことになる。京橋・味の素本社の脇道を入ったところに 「正弁丹吾亭」 (ショウベンタンゴテイ) という一風変わった名の関東煮 (カントウダキ) の店があった。小さな間口のマッチ箱のような四階建のビルと記憶しているが、三階まで店舗で、狭い階段を上ると寒さに曇った眼鏡の向こうに見える、和服に割烹着を着たオバサンが関西弁でてきぱきと対応している姿に心和んだものだった。

 「関東煮」 というのは関西風のおでんのことだ、とその店で初めて知ったのだが、総じて当時の東京のおでん屋が濃い醤油色の出汁を使っていたのに辟易していたので、旨味の利いた薄塩でやや甘めのその味の虜になった。夜長の季節には心身温まるこの店に幾度か足を運んだが、何時頃だったか、やがて店は忽然と消えてしまった。

 関東生まれ・関東育ちの身には何処か大阪は近寄りがたい場所である。出張や旅行でいくつもの国内地方都市を訪ねたが、何故か大阪だけは縁遠かった。還暦を目前にして、流石に死ぬまで大阪に足を踏み入れぬ訳にもいくまいと、義父の喪中で少し時間のできた年の暮に思い立って羽田に向かった。

 実は 「正弁丹吾亭」 は法善寺横丁に本店があり、織田作之助の 『夫婦善哉』 に登場する老舗であることを知って読んだことがある。文学史には 「東の太宰、西の織田作」 と言われ一世を風靡した時期もある、と記されているが、一読して織田作之助は 「難解」 だった。僅か33歳で早逝した生粋の浪速作家を育んだ異文化に全く馴染めなかった、のだと今にして思う。貧しい路地の揚げ物屋の娘・蝶子はやがて芸者となり、妻子あるぼんぼんの優男・柳吉と相思相愛に。柳吉も商家を飛び出し勘当となるが、小商いにもすぐ飽き、定職にもつかぬ質で、その癖、蝶子の大切な蓄えを遊郭で散在する始末。世間の嘲りを余所に、蝶子が尽くすほどの魅力も柳吉には感ぜず、常に危げな関係の二人をただ大阪の風物が優しげに覆っている…そんな小説のイメージしか残っていない。

 伊丹から阪急で梅田に着くと、地下鉄にも乗らず、御堂筋を南へ南へと歩いて下った。初めての大阪の空気を満喫しながら、「芭蕉終焉の地」 など名所に寄り道し、なんば・法善寺横丁に着いた頃には冬日はどっぷりと暮れて、水掛け不動の提灯が薄暗く小さな石の堂の中の人の列を照らしている。

 ようやく目当ての店を見つけて暖簾を潜ると、想像とは異なる小奇麗な割烹となっていた。法善寺横丁の門に掲げられた横板看板 (揮毫は三代目・桂春団治) の裏側に平成14、15年の大火の見舞金御礼が記してあったのを思い出した。そう、あの時、関東煮の大衆店としての 「正弁丹吾亭」 も消失してしまったという記事を読んだ記憶が蘇った。今はあの懐かしい関東煮は、もうこの店にはない。主人に京橋の支店の思い出を伝えると、「随分、昔のことでおまんな」 と嗤われながらも、当時を懐かしむ客に供するという 「みそおでん」 を頂いた。

 店名の由来を記す紙の台敷きにこう書いてある。

「明治二十六年、その小路の南西角にできた関東煮を看板にした立ち飲み屋が当亭のはじまりで、(中略) 当時の従軍記者小川未明がもじったのだと聞いておりますが、「正しく」「弁える」「丹」(マゴコロ)のある「吾」(ワタシドモ)の「亭」(ミセ) というように心して、このケッタイな屋号をありがたく頂戴したものです。」

 遠き記憶の関東煮に巡り合えなかった喪失感を抱きながら店を出ると、傍にある 「夫婦善哉」 をうたった一句の石碑が静かに佇んでいた。

    行き暮れて ここが思案の 善哉かな  作之助



Powered by Flips