エッセイ


日本のNY、大阪 ―『夫婦善哉』を携えて ②

投稿日時:2016/01/02 14:39


 伊丹空港から梅田に向かう阪急電鉄のホームに佇み、駅の構内放送に耳を疑った。「2号線に阪急梅田行が参ります。」 〇番線、ではなく〇号線!? やがて喧騒の梅田駅に到着すると構内のエスカレーターは左側が 「歩行車線」 …東京とは逆 (これは事前に知っていたので後ろから来たオバチャンに 「どいてえな」 と言われず済んだ)。地下鉄の扉上の直線の路線図を見ると、何故か駅間が等間隔ではない。これは駅間の距離の差かと思ってよ~く見てみると、乗り継ぎ線の記載に従って路線図の駅間が定められているからだった。地図を片手に御堂筋を歩きながら、大阪では大通りのことを「筋」と呼ぶのかと思えば、南北の通りを「筋」、東西の通りを「通り」と呼ぶらしい (これは織田作之助の小説に「解説」がある)。街中を歩いていると、人々の足取りが早い。年の瀬のせいかと思ってよく観察していると、歩きスマホをしている若者が極端に少ないことに気付いた。そんな事していると口煩いオバチャンに怒られるせいだろうか。

 初めて大阪の街中に立ち突き刺さってきた異文化性は、整然とした街並みの美しさに衝撃と感動を覚えた、着任したてのあのニューヨークの街角で感じたものに近かった。そうか、これが 「大阪的合理主義」 なのかもしれない。御堂筋も、大正から昭和にかけてキタとミナミの間のヒトとモノの流れを円滑化させるための一大事業として拡幅された、と路肩の解説板にあった。「大阪歴史博物館」 で江戸期と現代の大阪市内の路面の比較が展示されていたが、昭和20年3月の大空襲で市内の大半が焼失したとはいえ、以前から、Avenue と Street の方状に街がつくられたニューヨークとの相似性は存在していたのだ。そもそも、中国の古都を模して造られた平城京以降の、日本の古代都市の原形が難波宮を経て大阪の街には生きているだけのことなのだ。東京の街づくりが無秩序だったということに過ぎない。

 「やめてしまおか、言うてますねん。」 先日、高校時代の親友夫婦と四谷荒木町に近い呑み屋で寛ぎながら会話を愉しんでいると、何かの拍子に親友の細君がこんな話を始めた。彼女は大阪北新地の牛肉料理老舗の娘なのだが、父親の先代が蒐集してきた民藝品のコレクションを財団として展示してきた博物館を閉めてしまおうか、と言っているというのだ。柳宗悦の民藝運動や、その流れを地域に根差した民藝運動に展開していった丸山太郎の「松本民藝館」に深い関心を持っていたので、それは勿体ないことだ、とは言ったものの、果たして大阪における民藝運動の展開とはどのようなものだったのか、あるいは現状がどうなのか、というのはその博物館を訪ねてみなければ分からない。今回の、大阪訪問の契機のひとつがこれだった。

 大阪に到着したその日に梅田から難波を経てその博物館にやって来た時分には既に冬の日は西に傾きかけていた。昭和25年に開館し、昭和35年に現在地に移築したというその博物館は、難波駅から更に15分程南に歩いた背の高いマンションに囲まれた一角に、「小さいお家」よろしく時代に取り残されながら生きていた。何処か古びた廃校寸前のようなきしむ床板を踏みしめながら、親友の細君の祖父が蒐集した日本各地の壷、皿、張りぼて人形、凧等が木枠のショウケースに並べられているのを丁寧に見て回った。展示されているもののクオリティは非常に高い。しかし、やはり、ある時点で何処か時代の流れに乗り損ねてしまった印象は否めない。勿論、民藝運動自体が、日本近代化によって失われつつある伝統工芸を後世に伝えていきたい、という儚い「時代への抵抗」であったことは事実なのだが。

 博物館を訪ねてひとつ分かったことがあった。親友の細君の祖父は、当初、丸山太郎と同様に、柳宗悦らの民藝運動と歩調を合わせながら、何らかの事情により袂を分かち、独自の路線を歩み始めた、ということだった。その原因が何処にあったのかは分からない。しかし、もしかすると霞を食べるような民藝運動に対し、より営利的な志向をもったのかもしれない。展示品に比して、比べ物にならない位に現在の民芸品の品揃えの充実した、そのショップを見ながら、ふとそう思った。

 そういえば、松下幸之助が美術品を収集して没後公開したという話は耳にしたことはない。大学時代に、同級生で大阪に本社を持つY社の御曹司の父親の田園調布の家を訪ねたことがあるが、趣味のいい藤田嗣治の小さな作品がさりげなく居間に飾ってあったのが印象に残った位で、やはり美術品にお金を掛けている風情ではなかった。親友の細君の祖父は例外的に、家業の儲けを民藝蒐集に投資し、しかも一般に公開することでこれを社会還元しようと考えたが、こうした発想は大阪商人の余り典型的な例ではないのかもしれない。寧ろ、経済的な発展軸を中心に彼等は結束し、御堂筋拡幅事業のような公共財への投資へと協力し合うのだろう。結果的には自らの事業に回帰することを願って。それが「大阪的合理主義」の原点なのだろう。

 親友の細君の祖父が結果的に、東京中心の柳宗悦の民藝運動との「違和感」を感じるのはある意味で当然のことかもしれない。飯のネタにもならぬ趣味・道楽に財産を継ぎ込むこと自体が大阪商人仲間からは奇異な目で見られたに相違ないからだ。親友の細君に 「それは勿体ない」 と軽率な発言をした自分を恥じた。東京と大阪の文化の間には、深い溝がある。東京の文化の尺度では測れないものが、大阪の文化にはある、ということだ。何故、エスカレーターひとつで、右歩行と左歩行との違いが生まれるのだろうか。

 そんなことを考えながら、博物館を出た足は、知らず知らずの内に、難波の繁華街のネオンサインへと誘われるが如く、向かっていくのだった。





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