エッセイ


「ひとやすみ」の風景

投稿日時:2014/12/12 22:50


 39度近い熱にうなされ続けてゴールデンウィークをまるまる棒に振った挙句、休み明けの病院で診察を受けれてみれば急性肝炎という診断で、已む無く 3週間の休養をとったのは32歳の時だった。社会人として仕事にも慣れ、トップギアで加速する中での突然のブレーキだった。この時、山手公園の晩春に萌ゆる芝生に横臥しながら、数年ぶりに拙い小説を書き始めたことは、今も忘れ得ぬ思い出のひとコマである。

 社会人として「不用意にひとやすみ」することが、あるいは習い性になってしまったのかもしれない。立ち止ることによって見えてくる人生の機微があり、それは決して敗北感を伴うものではなかったし、得られた果実は血肉となった。つまり、その後性懲りもなく3回にわたり、この 「ひとやすみ」 を経験することになる。いずれも、アクセルを吹かせ過ぎの挙句のエンスト、である、と言っていい。

 さて、「椎間板ヘルニア」 との診断を受けて3週間。ウルトラマンよろしく10分以上、立ったり歩いたりできない状況の中で、しかし、サラリーマンとしては「最後の周回」に入りながら、ゴール目前に足を止める訳にはいかない…という意識はある。朝晩のラッシュアワーを避けて時間を調整することで、10分立ち歩きながら、その間隙に座る場所を見つけては「ひとやすみ」をとりつつ通勤を続けている。

 これは過去4回の経験から既に学んだことなのだが、「ひとやすみ」する居場所というのは必ず何処かに存在している。例えば、赤坂見附駅から外堀通りを歩いて会社に向う10分の道程。駅を出て溜池に向けて暫く行くと、某大手銀行の一階のウィンドウには丁度腰掛けられる高さと奥行の縁(ふち)がある。しかもいつもウィンドウのシャッターは締めてあるので、中から疑われることもない。四谷から赤坂見附までの丸ノ内線は混み合う区間なのでいつも立ちっ放し。既に赤坂見附の駅を出た時には10分を経過して「胸の赤いランプ」は点滅していることになる。

 この銀行のウィンドウの縁に腰かけながら、ふと見上げると、ひと昔大惨事を起こした 「ホテル・ニュージャパン」 の跡地には、外資系保険会社が入るガラス張りの見事な高層ビルが山王の森を背に、冬の高い空に美しく聳え立っている。おもむろに携帯を出して(勿論、ガラケーである)、さもメールでもチェックしているような素振りをしてはみるものの、目の前を北風にコートの襟を立てて街往く人々は、これから始まる仕事に、あるいは手許のスマホに意識を奪われながら、妙な場所に腰を据えている男の姿など目も呉れないことに気付き、無駄な演技は不要であることがすぐ分かる。

 誰も路傍に眼を遣ることもない。ひたむきに職場に向かって行く。時には顔見知りの同僚でさえ声を掛ける暇もなく通り過ぎていく。…脇目も振らず、自分もこんな三十余年を過ごしてきたのだなぁ、という感慨。この間、とても大切なものを幾つも犠牲にして、切り捨てて、ひた向きに前に進み続けてきた自分が、やがて目の前を遮り往くひとびとに重なる。同時に、その人の流れから外れて 「ひとやすみ」 している自分が、とてつもなく 「かけがえのない時間」 に恵まれているのではないか、という不思議な眩惑を覚えることになる。

 やがて、コートの裾を払って、そんな人の流れに自分自身も合流するまでに、ものの 3分も経ってはいない。しかし、椎間板ヘルニアになり、止む無く 「ウルトラマン歩行」 を経験するようになってから、つまり 「ひとやすみ」 をしながら、少し自分を客体化してみる僅かの機会に、実は貴重な時間を得たことに気付いている。勿論、これは、過去4回の経験の延長線上にあるものなのだが。

 「 柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 寂しからずや 道を説く君 」。ラッシュアワーを少し過ぎた電車に腰掛けながら目の前でスマホに夢中になっている若者の姿を見ると、与謝野晶子のこの歌を思い起こす。いや、正確には最後の一節は 「スマホ見る君」 と置き換えた方がいいだろう。バーチャルなリアリティは、いまや人間にとって一番大切な「現実との対峙から生まれる生身の体験」 から若者を隔離している。

 やり手の若手経営者が 「通勤時間に何をしているか」 と訊ねられると、大抵は「何もせずに、頭の中で今日の仕事の段取りを考えている」 と答えるのが一般的だが、まあ、これは脂の乗り切った世代、あるいは特殊な立場の人のことだろう。それ以外の人にとっては、場末の居酒屋で独り酒を楽しむ初老のサラリーマンよろしく、「来し方行く末」を一本の熱燗に絡ませながら逡巡している、といった類の時間の過ごし方が、通勤時間の「正しい使い方」なのだ。

 ホームを歩きながらさえスマホに没頭している若者は、一体いつ 「考える時間」 を作っているのだろうか。「考える」 のは何も仕事のことばかりではない。「自分は何処から来たのか。自分とは何なのか。自分は何処へ行くのか。」 …時には、ポール・ゴーギャンがタヒチで人間存在を省みたように、駅のホームで逡巡し、煩悶してみたまえ。そんな時間のない人生なんて、空しくはないだろうか。

 週二回、整骨院での 「緩和施術」 によって、椎間板ヘルニアの坐骨神経痛の症状は幸いにも緩和されつつある。しかし、決して治癒することなく生涯付き合っていかなければならないこの持病を得て、むしろ 「幸運であった」 と思うことにしている。それは 「ひとやすみ」 の風景の中に、さまざまな 「目に見えない大切なもの」 を発見する機会を得たからである。冬空に映える、外堀通りのハナミズキの紅葉に、子供に戻った新鮮な驚きを感じるような、そんな清々しい心持で、「最後の周回」 を楽しめるのであるから。

 



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