東日本大震災の津波の去った後の悲惨な光景を目の当たりにして思い起こす、深層に刻み込まれた原風景があるとすれば、それはセピア色の印画紙に焼き付けられた、原爆投下直後の広島・長崎の空虚な街の写真である。市井の人々の生活を一瞬にして奪い去ってしまった脅威は、それが天災であれ人災であれ、その瞬間を想像する者には慙愧の念に堪えないものがある。
8月4日に生まれた者に負わされたもの、それは6日の広島、9日の長崎と続く原爆の記憶であり、更には敗戦による戦没者の追悼、そして死者の霊と寄り添う旧盆である。子供の頃から、両親の実家の津軽で夏休みを過ごし、北国の早い秋の気配の夕暮れに、野菜で造った動物を備え藁の送り火を焚くことが、何故か私自身の「誕生日の儀式」として染みついてしまったような気がする。青森の勇壮な人形「ねぶた」よりは、弘前の扇「ねぷた」の送り絵に描かれた着物姿の青白き女性の憂いを帯びた笑みの中に、私の生誕の慶びは常に重なっていた。

津波や原爆で多くの尊い命が奪われ、街は壊滅されるとも、人はやがて再び街を興し絆を取り戻す。それが社会的生物としての人間の本性であり、街に生活の拠り所を求めることこそ人間としての活力の源泉に他ならない。しかし、震災後1年半を経過してすら蘇らぬ街があることは、現在の「無縁社会」とも決して無縁ではなかろう。私たちはなにか大切なものを喪ってしまった。
アメリカの独立記念日である「7月4日に生まれて」の主人公は、それ故に愛国者となってベトナム戦争に参戦し、そして大きな蹉跌を味わい、平和運動に身を投じる。それこそが真に国を愛することだということに目覚めたからだ。他方で、多くの死者たちを悼む日本の8月4日という時節に生かされた者は、死と寄り添いながら再生を信じることになるだろう。街というコミュニティの再生と、絆という人と人とが助け合える心の再生を、である。
誰もが余り意識していないことだが、1年に一回誕生日を迎えるのと同じように、実は、私たちは1年に一回、来るべき自からの「命日」を通過している。それが「始まり」と「終わり」ではなく「表裏一体なもの」だと感じるのも、8月4日に生を享けた故なのかもしれない。
8月4日はまた、私の心をとらえて離さない、「寅さん」こと渥美清の命日、でもある。