エッセイ


李明博は街づくりのリーダーだった!―ソウル路地裏放浪記③

投稿日時:2012/06/20 18:18


 ソウルの路地裏を縦横無尽に歩き回っているうちに、必ずこのグリーンベルトを幾度か通過することになる。慌ただしくクラクションを鳴らしながら自動車が走り回るこの都市空間に一服の清涼剤となる「清渓川」がそれである。親水公園として川の両側が散歩道となっており、初夏の夕暮れともなると、涼を求めて繰り出す若いカップルやお年寄りの寄り添う微笑ましい姿がこの忙しない都市空間に一服のゆとりを与えている。
 実はこの川、2004年までは生活排水を漢江に流すための暗渠だった。過去から増水による氾濫に悩まされてきた上に、都市部の人口増加の結果、汚水による悪臭と景観の悪化が著しく、1978年までにこの川は暗渠化されその上を高架道路が走るようになった。いわば「臭いものに蓋」である。そして、その高架下にはソウルの場合、ご他聞に漏れず露店が軒を連ね、市場が形成され根を茂らせることになる。
 この清渓川に自然を取り戻し、歴史を生かした街づくりを標榜してソウル市長になったのが、他ならぬ現大統領の李明博であった。工事期間中の都市中心部にある高架道路の交通渋滞をどうするか、市場を形成している露店の営業補償をどうするか、暗渠に流れ込む生活排水をどのような代替で処理するか、数々の難題を強いリーダーシップで克服し、僅か2年3ヶ月の短期間に、清渓川は全長5.84キロメートルの親水公園として蘇ったのである。そう、李明博は、街づくりのリーダーだったのだ。
 常々残念に思っているのは、元町が高速道路の日陰に隠れてしまっているということ。堀川に掛かる高速狩場線は、開港時に山手のブラフと山下のバンドを行き来した外国人達を相手にして成立した元町の動線を断ち切ってしまった。ブラフとバンドが遮断され、堀川は自然の輝きを失った。関内をはじめ市の中心部の交通網の整備にこれだけ配慮を重ねた横濱の都市設計に、画龍点晴を欠く結果となってしまった、と今でも感じている。
 日本橋をはじめ高速道路で失われた昔の景観と生活の動線を取り戻そうとする活動が、今盛んに提唱されてはいるものの、行政主導では実現しそうな気配はない。もし、横濱にも「もう一人の李明博」が存在したら、きっと狩場線をなくし、堀川に自然を取り戻し、バンドとブラフを繋ぐ街としての元町を生き生きと蘇らせるに違いない。
 李明博はこの清渓川を含む都市再生計画とその実践を、その後『清渓川は未来に流れる』という著書にまとめている。印象的なのはその結語「流れゆくものを止めることはできない」。街づくりのリーダーが国家の元首になる、それほどに韓国人にとって、街は生活にとってかけがえのない重要なものであるに相違ないのだ、と身につまされる思いがする。


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