エッセイ


街は自生する―ソウル路地裏放浪記②

投稿日時:2012/06/19 04:07


 ソウルは街の至る所に市場が延びている。路地裏を歩き回って気づいたことは、それが決して無秩序ではないということだ。つまり、同業の店が必ず肩寄せ合って軒を並べているということ。街の一区画だけが同業で占められる、日本の〇〇町というのとも少し違う。同じ広蔵(クァンジャン)市場でも、鰻の寝床のような路地に八百屋、衣料雑貨、漬物屋、そして屋台と固まって並んでいる。しかも同じ屋台でもビビンパを食べさせる店は特定の場所に集中しているのだ。
 考えようによっては非常に便利で、例えばタカンマリ(鶏一匹鍋)が食べたければ東大門(トンデムン)のモクチャコルモク(食堂横丁)の特定の場所に足を向ければいい。どこぞの店が一杯で入れなくても傍にちゃんとタカンマリの別の店がある。しかもそれしかメニューがないので迷う必要もない。ハングルが喋れなくても座れば必ずタカンマリが出てくるのである。
 ソウルの生活に百貨店は必要ない。どこかの市場を入口から出口に歩く間に大方必要なものは揃ってしまい、おまけに腹ごしらえまで済んでしまう。
 これは韓国人の一種の合理主義なのかもしれない。あるいは街づくりの潜在的ポリシーともいうべきか。街の市場は太い線となって延びていき面となり拡大していく。再開発のためにこの市場のDNAを遮断してビルを建てようとしたら、凄まじい反対運動が起きて、建てられたビルの一階の通路がそのまま市場になってしまった、という逸話まで残っている。
 こうしてソウルの街は逞しく自生していく。市場沿いに狭い間口の店を持ち、あるいは10人も座れば一杯の屋台を構え、人々は身を寄せ合い糊口を凌ぎながらこの街に生きていくのだ。街自体が生活そのもの、と言っていい。そんな街に「街づくり」なんて不要だろう。街は人々の生活を支えることで、新陳代謝を繰り返し、自らの遺伝子により再生し、成長していく。
 そんなソウルの街の活力に圧倒されながら、街づくりをお手伝いしている元町の老舗社長のSさんの口癖を思い出す。それは商店街の大先輩の一言で、「デパートやコンビニはハウス栽培だ。お前たちは露地栽培で生きていく覚悟をしろ」と。この箴言の意味するところは、「街づくり」などという作り物の仕掛けをしなくとも、逞しく自生していく街づくりを目指せ、ということなのだ。人々の生活に根付いているからこそ、街は廃れることを知らない。


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