太宰治の晩年に「眉山」という掌編がある。彼が懇意にしていた新宿の「若松屋」という呑み屋に「トシちゃん」という静岡の田舎から出てきた二十歳の女中がいる。浅学ながら太宰らの文人仲間の話に首を突っ込んでくるので、半ば煙たがれているのだが、何処か憎めない。いつもドタドタと階段を上り下りしては慌ててご不浄に飛び込んだりしているのだが、酒を頼めば寒さも厭わずすぐに燗酒を運んできてくれるような愛嬌のある娘だった。
そんな鼻摘み者のトシちゃんが、ある日唐突に若松屋から姿を消してしまう。女将の話によると「腎臓結核」の診断を受け、既に手の施しようがないため、静岡の実家に帰省させたのだ、という。トシちゃんが、慌ててご不浄に飛び込んだりしていたのも、腎臓疾患で排尿が近かったためだ、ということに気付く。太宰はこの話を聞いて、いたたまれない罪悪感と喪失感に苛まれる、という小説である。
この短編は、病苦をおくびにも出さず、無教養なりに明るく振舞っていたトシちゃんの「隠された事情」を知って、半ば蔑視の情で接していた自身に痛恨なる後悔を感じる、衒うことを嫌い「露悪家」としての人生を貫いた太宰らしい話であるとともに、おそらくは津軽人の心情に訴えるものがあるような気がする。津軽人である父も母も、職人さんや仲居さんのような人々にとても丁重に接していた。客の立場に奢ることなく、むしろ同じ視線で語りかけるので、彼等とすぐに知己になってしまう程である。父はこうして気心の知れた呑み屋をいくつか持っていて、決して「浮気」をしようとはしなかった。津軽人には、使用人を含む同族的な生活の中で培われた「立場を超えた共感」の意識が血の奥に潜んでいるのかもしれない。
つい最近まで、山茶花が香る花であることを知らなかった。というのも、山茶花といえば椿の仲間であり、椿は香らないもの、と思い込んでいたからだ。秋晴の週末、いつものように桃園川緑道を散歩していると、ほんのりと奥ゆかしい香りに辺りを見回してみれば、路辺に山茶花の大樹が、白色に少し桃色を塗した満開の花を咲かせて聳えていた。最初は山茶花の香りとは信じられなかったが、晩秋に咲く素朴なこの花に鼻を当ててみると、秘かに香っている。
調べてみると、確かに山茶花は椿と同種ではあるが、香るのが山茶花、香らぬのが椿、という区分の仕方もあるらしく(唯一「香り椿」という例外があるのだが)、散り方も、武士が「首を落とす」ので忌避したといわれる椿に対し、山茶花ははらはらと花弁を落として散っていく。「山茶花の香り」をインターネットで調べてみたら、何と芳香トイレットペーパーや入浴剤にまでなっている位だから、山茶花の香りを知らなかったことは相当な晩生に属することになる。
中野にDという贔屓の居酒屋がある。入口近くには呑み助には堪らなく居心地のよい三角形に拡がったカウンターがあって、左手奥にはテーブル席、二階には座敷席のある、大きく賑やかな酒場である。季節折々の魚と肴があって、刺身でよし、焼いてよし、煮てよし、特に秋深くなってくるとカウンターに座りながら、熱燗で一杯という雰囲気がぴったりの店である。
昨今の世情宜しく、この店にも、日本人の仲居さんに交じって、フィリピンやタイから来ていると思しき数人の女性たちが女中さんをしていたりするのだが、きちんとした日本語と日本的な礼儀を弁えてから一階に降りておくる。二階のお座敷は余程混み合っている時や大人数の宴会の時にしか使われないが、ここでキチンと修業しないと一階には降りてこれない掟なのだ。だから、修業を積んだ彼女たちは決して客のオーダーを忘れるようなことはない。
そんな、一階のカウンターの中には、日本人の筆頭格の「マキちゃん」がいる。門司の古い旅館を実家に持つ藤原新也がエッセーや小説の中に描く、子供の頃に可愛がってもらった「訳あり」の仲居さんの話を読んでいると、このマキちゃんのことを思い起こす。いかにも苦労を重ねてきたことを伺わせるその風貌は、歳の頃は六十前後、すらっと痩せぎすで細面の顔立ちに、いつも心持ち濃い椿色の紅を差している。三角カウンターには独り呑みのお客さんが多いので、いつも笑顔を絶やすことなく、分を弁えながらも、時として独り客の話相手になってくれたりするのだ。一度訪れてくれた客の顔と名前は忘れない。仕事を終えて、今日一日の嫌な出来事を家に持ち帰りたくない男たちが、マキちゃんの笑顔に迎えられながら独りこのカウンターに止り木を求め、心落ち着かせていくために、一杯引掛けていく場所なのだ。
ある日、その三角カウンターに座ってみると、肝心のマキちゃんの姿が見当たらない。いつもは一階のフロアーのテーブルを担当している他の仲居さんたちが代わる代わる入ってきて、カウンターの客の相手をしている。隣に座っているロレックスを腕にした大柄な紳士が、店全体を仕切っている男性のフロアマネージャーを呼び止め、赤貝の刺身の鮮度に文句を言っている。マキちゃんはどうしたの、とその客が訊ねると、マネージャーは眉を八の字にして、身体の具合が余り良くないんで……と答えるのを小耳に挟んだ。
その客とマネージャーとの会話がひとしきり終わると、隣の客に話しかけてみた。
「見てくださいよ、この赤貝の色。マキちゃんがいれば、絶対こんなものは客に出さずに調理場に突っ返しているんですけどねぇ…。」
マキちゃんはどうしたのか、と訊ねると、その客は、どうも心臓の具合が余りよくなくて、暫く店には出られない。もしかすると、このまま、もう辞めてしまうかもしれない、という話だった、とマネージャーから聞いたことを伝聞してくれた。いつも濃いめの紅を差していたのは、紫色の唇を隠すためだった、のかもしれない、と杯を傾けながら静かに考えた。
やがて妙な喪失感が襲ってきた。このカウンターを訪ねても、もうマキちゃんのあの笑顔が見られないのかもしれない。独り本を読みながら、手酌を重ねている先の隣の客に簡単な挨拶の言葉を残して、勘定を済ませると、冷んやりと夜の帳の降りた晩秋の街へと店の扉を開けた。風に靡く、その暖簾を潜ると、何処からともなく、山茶花の香りがしたような気がした。