エッセイ


セントラルパークの風に吹かれて⑧ ― 旅の終わりのオンブラ・マイ・フ

投稿日時:2014/10/27 21:10


 NY駐在員として破綻した現法の経営と社内の荒廃の再建に腐心していた時期だった。人心の機微に繊細なるが故に時に「オセロ」と化す社長の疑心暗鬼に翻弄されながら、ともに彼を respect し状況に対峙した「戦友」とも言える同僚の I氏と、週末、NYのピアノバーで強かに酔い潰れ(勿論「自腹」である)、東の空が白み始める頃、歩いて帰れる距離の I氏と別れ、一台のイエローキャブを拾った。

 イエローキャブの運転手は、現在の日本と同様、いつ暴漢に命を狙われてもおかしくはない危険に晒され、基本的には競争の激しい自営業であるため、かなり低所得の職業であって、当時はインド・パキスタン系の移民が多かった。しかし、その運転手は明らかにアングロサクソン。「お前は日本人か?」と訊ねた後で、きちんとした英語でこう聞いてきた。

 「ヒロシマに樹木は生えているのか?」

 一瞬、耳を疑い ”I beg your pardon?” と聞き返す。

 「アメリカが原爆を落とした後、ヒロシマに樹や草は生えているのか?」

 1996年頃の話である。戦争が終わって、既に50年が経っている。

 「大丈夫だ。樹も草も生え人々は以前のように暮らしているよ。ご厚意に感謝します。」

 咄嗟に、この男が若い頃対日戦に参戦した兵士だったのではないか、と思ってこう応えた。沖縄辺りで「殺すか殺されるか」の修羅場を潜り、PTSDを患っているのかもしれない。いや、あるいは、より凄惨なゲリラ戦に巻き込まれた、ベトナム参戦の兵士だった、という可能性も否定できない。

 この時の印象は今でも鮮烈に残っている。「世界の自由主義」のリーダーを標榜しているアメリカではあるが、その理念の故に時には苛烈な戦場に兵士を送り、多くの犠牲者を出している。シリア政府が反政府勢力に対し化学兵器を使用した際に、「一般市民の大量殺戮兵器の使用は国際倫理に反する」 として攻撃をも辞さない、と発言した副報道官に対し、アメリカの記者が 「それではヒロシマに投下した原爆は倫理には反しないのか?」 という質問をしたが、副報道官はこの質問を無視した、というのはつい1年ほど前の出来事だ。アメリカ市民の中にも、この記者と同じ考え方をする人は少なくないのだ。

 一週間のNY滞在を終えて、ホテルを出る朝、JFKまでリムジンを頼むことにした。スーツケースは買い物でかなり重くなっていたし、イエローキャブは空港までは定額料金を定められているにも関わらず、客を見て法外な料金を請求することがある。観光案内に出ている広告のリムジンは価格もイエローキャブより安く、広いトランクルームを持つ黒塗りのセダンがホテルの前まで着けてくれるのだ。

 指定の時間にリムジンはホテルの前にやってきた。運転手はきちんとスーツを着てタイを結んでいる。生憎の雨空である。改めて行先のJFKと、航空会社とターミナルを伝える。運転をはじめて暫くすると運転手がいろいろと話しかけてくる。少し、訛りのある英語だ。観光客で帰路だ、と言うと、何処に帰るのか、と訊ねるので、日本だ、と答える。

 「日本とアメリカの関係は上手くいっているのか?」 どうも日米関係には疎いようだ。あるいは、日本のことを良く知らないのかもしれない。

 「日本とアメリカは同盟国だ。非常に親密な関係だ。」 と答える。

 「そんな訳はないだろう。原爆を落とした国と、落とされた国が仲がいい訳がない。」

 ふと、15年以上の「あの晩」のことが頭を過った。

 「戦後のアメリカ占領下で、日本はすっかりアメリカナイズされてしまった。今では、アメリカの 『51番目の州』 と言われている位だ。」

 彼は、その答えには何故か不満そうに、こう尋ねた。

 「日本人とユダヤ人の関係はどうなんだ?」

 「さあ、それほど良いとも悪いとも聞かないが。」

 ふと、運転席に掲げてある Name Card を見ると、ロシア風の名前のアルファベットが読める。

 「日本までは、飛行機で何時間かかるんだ?」

 「13時間くらいかな。」

 「私はヨーロッパの出身なのだが、5時間半でも飛行機に乗るのは辛いので、とても想像がつかないな。」

 と言って、彼は旧ソ連邦のある国の名を自らの出身地として口にした。車はトライボロー・ブリッジを渡ってクィーンズに入っていた。雨に煙る窓の外に、マンハッタンの摩天楼の群は見えない。

 「ほら、右手に見える大きな建物は精神病院だ。この街には沢山の精神病患者がいる。……この街は、病気だ。」

 確かに、彼がハンドルを握りながら顎で指した右手の建物の窓には、全て格子戸が嵌っている。相当な収容人数を持った病院に見えた。

 車は滝のような雨の道を滑るように高速で飛ばしていく。コロンバス・デーの連休前だというのに、想定外に路は空いていた。車はやがてフラッシングに入り、左手にシェア・スタジアム、USオープンのテニス場、そして1964年に万博が開催された広大な公園「コロナ・パーク」を通る。

 「俺の家は、丁度この右手にあるんだ。」

 運転手がこう言った瞬間、在勤中の休日に、コロナ・パークを訪れた、遥か昔の記憶が蘇った。大きな池の周囲の芝生に、決して裕福とは言えない移民の家族達がバーベキューをしながら寛いでいる風景だった。つまり、その風景の中の一人が「彼」なのだ。

 リムジンは無事にJFKに辿りついた。定額の料金に、少し多めのチップを彼に渡した。彼のようなアメリカ人は、決して多くはないが、皆無ではない。そして、いつぞやのイエローキャブの老齢の運転手のように、少なからず「重い過去」を背負って、この国に暮らしているのだ。

 NY駐在中に、束の間の美食と芸術を求め、9月初旬のレイバーデイ・ウィークエンドにはパリで休暇を過ごしていた。帰任が迫った「最後の」夏休みだった、と記憶しているが、パリからシャルル・ドゴールに向かう電車の中で、CDウォークマンで聴いていたのは、アンドレアス・ショルの唄う、ヘンデルのオンブラ・マイ・フだった。火照った旅の心を鎮めるために、バロックのこの静かな曲を選曲してみた。そして、ショルのカウンター・テナーは、子供の頃、ボーイ・ソプラノだった時の、脳に刻みつけられた高音の音色の記憶を蘇らせてくれる。女声のソプラノにはない「乾いた情熱」の透明な感覚を与えてくれるのだ。

 その時、NYの喧騒とハードな業務に戻りつつある、その車窓から見える、パリ近郊の田園風景を眺めながら、その風景とオンブラ・マイ・フは見事に融合し、これほど旅の終わりに似つかわしい曲はない、と感じた。そして、自らの「来し方行く末」を想いつつ、一筋の涙が零れ落ちたことを、覚えている。

 JFKから航空機に揺られながら、再び、iPodでショルのオンブラ・マイ・フを聞いていた。あのリムジンの運転手の澄んだ、蒼い瞳を思い出しながら。                 (了)



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