エッセイ


セントラルパークの風に吹かれて② ― 地下鉄の風景

投稿日時:2014/10/16 06:29


 地下鉄の前の席に、ある女性が座って先ほどから手許の書類のチェックに余念がない。女性はまだ、少しあどけなさの残る20代後半。アングロサクソンではなくヒスパニック、あるいはアフリカン・アメリカンが少し混じっているのだろうか、黒い縮れ毛が目立たぬようにショートカットにした髪型が、薄い褐色の肌と細面の凛とした顔立ちに、よく似合う。決して高価ではないがシックな柄のワンピースを小綺麗に着こなしている。

 女性は少し緊張気味に書類に眼を通しながら、声を出さずに暗誦しているようだ。書類はパワーポイントの原稿の束。数ページ飛ばしたり戻ったりしながら、頭の中で説明のストーリーを確認しているように見える。彼女はこれから「何かの」プレゼンテーションを、しかも相当数の観衆の前で行おうとしているに違いない。

 日本流に考えれば、彼女は例えば看護師かあるいは損害保険の経験の深い外交員で、同僚や新入社員を集めて自らの専門的な分野に関する講義でもするのだろうか、と想像するところかもしれない。しかし、この国では子供の頃から人前でプレゼンテーションを行うことを習慣づけられている。小学校の演芸会、自由研究の発表、ゼミでのレポート、学園祭でのスピーチ、職場でのTQC、業界団体での勉強会、インセンティブ・コンベンション…ありとあらゆる機会に「自分をプレゼンテーションする」ことが求められているのだ。

 これは「自由と平等」の帰結として当然のことかもしれない。いかなる肌の色、境遇、家庭環境、経済的地位に生まれようとも、人間は一人一人必ず優れた個性を持ち、それを研ぎ澄まし他者に認めてもらうことで、自らの意志と能力によって社会に貢献し、その報酬を得ることができる。これが「移民の国」として様々な人種と文化を背負った人々によって造り上げられたこの国が、個人の活力を国力へと集約していくための「イデオロギー」に他ならない。

 だから、地下鉄の貴方の前の席に偶々坐った、必ずしもエスタブリッシュとはいえない女性が、プレゼンの準備をしていることは決して珍しいことではない。そして聴衆の前で、自らの考えや主張、専門的知識をプレゼンする機会は、この国に住む人にとっては、塵の数ほども存在しているといっても過言ではない。

 考えてみると、これはとても高い緊張感を継続的に強いられることだろう。自分の長所はどこにあるのか(どんなことであれ)、そしてそれをどのように伸ばしていけばいいのだろうか、更にそれをどのように他人にアピールすればいいのか…。この国の人は「自己実現」を目指して、常に努力し続けなくてはならないのである。「降りていく生き方」は許されない。われわれが想像している以上にストレスの大きな社会である、といえる。

 一方で、だからこそ様々な優れたエンターテインメントが生まれる。例えば、歌や踊りという「個性」を伸ばそうと考える人々は自らの才能を研鑽し、学び、経験を積んで、何千倍というオーディションを経てミュージカルの舞台に立つことができる。そして、それぞれのエンターテインメント領域の、さらに細分化された分野において、このプロフェッショナルの裾野は深く、広い。ミュージカル、クラシック、ジャズ、オペラ、バレエ、パフォーミングアート、いずれをとってもこの国、この街が、群を抜いて個性的であって、そして他者を愉しませる技に秀でているのは、まさにこうした「自己実現の力」があるからに他ならない。

 自分を常に高めていくための大きなストレスと表裏一体をなして、上質で誰もが愉しめる洗練されたエンターテインメントが存在している。それを支えるのが高度な資本主義であって、より自分を高めることにより、より高額の所得を得て、より生活の質を高めることで、社会全体も豊かになる……ということを、この国の人は微塵も疑っていないように思われる。

 おそらく戦後日本も、このアメリカ流の考え方を少なからず模倣し、内在化させてきたに相違ない。高度経済成長期はもとより、バブル崩壊後も現在に至るまでその深層は変っていない筈だ。そうではない、と考える人がいるならば、ヨーロッパの生活を僅かでも垣間見てみれば、その「垢」に染まっている自分にすぐ気付くことだろう。彼らは50年以上前の路面電車を、修理しながら今でも使っている。大量生産、大量消費の持つジレンマの罪を、キリスト教に支えられたその長い歴史の中に学んでいるからだ。

 その意味で、アメリカ社会の価値観の影響を受けた(それが表層的なものでしかないことは、また何処かで触れることになろうが)日本のストレスを、NYで洗い落すことは、そう間違ったことではないのだろう。劇団「四季」の「模擬ミュージカル」を観るよりは、ブロードウェイの「本物」を観るに如くはない。事実、6年半のNY生活の中で、このジレンマに染まった過去は、捨てがたく染み付いて離れない。一度、ヨーロッパでその「洗脳」は解かれた筈なのだが……。



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