エッセイ


「美しい星」

投稿日時:2014/09/27 05:01


 「優れた感性というものは、われわれの想像も及ばない死を選ぶことがある」

 伊丹十三の自死に接し、親友がふと漏らした一言を今も忘れない。優れた作家、あるいは芸術家は如何に「浮世離れ」した作品を遺そうが、決して「時代の感性」に無縁ではありえない。譬えれば、昭和天皇が「これは子供が描いた画か」と訊ねたことで有名な熊谷守一は、後半生の数十年を自宅の庭の繁みに終日身を横たえながら観察した自然の在り様を描き続けたが、それは時代が余りに早く動き過ぎたからである。

 3.11の原発事故以降、思い出したように急に脚光を浴び始めた三島由紀夫の一篇の小説がある。『美しい星』 という昭和37年の作品。東京近郊に住む両親と兄妹の一家が空飛ぶ円盤との遭遇により、自分たちが宇宙人である確信を抱いてしまう話である。一見荒唐無稽に見える設定だが、米ソが相次ぐ核兵器開発によって一触即発の人類存亡の危機感に世界が満ちていた時代、この一家は人類を救済しなくてはならないという使命感に燃える。こうして主人公達を大所高所に立脚させることで人類の営為の愚かさを浮き彫りにしようという作家の意図を感じることができる。

 小説の終盤近く、同じく自分たちも宇宙人だと信ずる一派が、しかし人類の愚かさの故に人類は破滅させるべきだという信念のもとにこの家族を訪ね、この主人との間に交わされる「救済か破滅か」の手に汗握る論争こそが、この小説の圧巻なのだが、主人は、救済されるべき人類の墓碑銘に記されるべき言葉として、こう語る。

 「地球なる一惑星に住める

    人間なる一種族ここに眠る。

  彼らは嘘をつきっぱなしについた。

  彼らは吉凶につけて花を飾った。

  彼らはよく小鳥を飼った。

  彼らは約束の時間にしばしば遅れた。

  そして彼らはよく笑った。

    ねがわくはとこしなえなる眠りの安らかならんことを」

 愚かなる人類に絶望しながらも、その「救済」を望んで已まない彼の究極の人類愛が、この言葉には籠められている。

 この小説が3.11以降改めて読み返される理由として、三島由紀夫が50年前に原発事故による放射能汚染の蔓延を既に予言していたから、と説かれるが、そうは思わない。もっと深い意味での共感を、現在のわれわれに呼び起こすからだろう。自分たちを宇宙人だと思い込んでいるこの家族は、当然のことながら近隣住民たちから「お高くとまった鼻つまみの変人たち」と忌避されている。あるいは偏狭に凝り固まった思想に、より普遍的なものを対置させようとするときに、人間であれば誰でもが感じる孤高な苦悩に共感する読者が、この小説を読み直しているのではないだろうか。そう思うこと自体が、今唯一感じることのできる「救済」でしかない。

 三島由紀夫の「感性」が逝って、この11月で44年が既に経とうとしている。

 



Powered by Flips