三十二年前。初任は経理。辛かったのは、年末の資金の移動のために「仕事納め」の後も出社しなくてはならなかったことだ。しかも経理の上司達は「うわばみ」と称すべき呑ん兵衛揃い。仕事納めの酒が更に二昼夜続く。午後、仕事が捗ってくる頃には、上司の机上には早くも一升瓶と茶碗が出没し、ご他聞に漏れず、勧め上戸ときている。酒は嫌いではないが、流石にこれは応えた。入社の頃はそんな非上場の偉大なる中小企業だった。三十年が経つと、人も会社も、変る。
この苦行が数年続き、鬱屈したこころは迷走を始めた。ある年末、昼酒に身を窶しつつ最後の仕事を終えると、何かから逃げるように中央線の急行に飛び乗った。行先は決めていなかったが、とりあえず終点の甲府で下車し、駅前の安ホテルに宿を取る。明くる朝、大晦日の甲府は眩いばかりの冬晴れだった。駅前のバスターミナルの行先案内にみつけた「昇仙峡」という名に魅かれ、バスに飛び乗った。
二十分ばかり街中を走ったバスは、唐突に畑の中の一本道を上りはじめる。ほどなく両側に丘が迫り、深い谷へと入り込んでいく。昇仙峡口でバスを降りると、美しい楕円を描いた橋脚を持つ長潭(ながとろ)橋の向こうに見える美しい渓谷の景色が心を誘う。市内から三十分ほどでこんな渓谷の入口に辿りついてしまうほど、甲府は小さな盆地なのだ。いや、それは「平野」に棲む人間の感覚なのかもしれない。
この渓谷は富士川の支流にあたる荒川(関東平野のものとは別物)が、花崗岩を深く浸食してできたもので、谷底には様々な形の花崗岩が落ちて、その奇観を作っている。亀岩、猿岩、駱駝石、烏帽子石等、想像力を刺激する岩々を見ながら、水豊かな清流のせせらぎをただただ聞きながら真冬の渓谷を上り、濁流澄むごとく、じっくり時間を掛けて世の憂さを洗い清めていく。こうして無心に渓谷道を三時間も登りながら、名峰覚円峰を仰ぎ抜け、仙娥滝まで辿りつく頃には、清明な心を取り戻すことができる。
仙娥滝に近付くにつれ、道は険しく谷深くなって花崗岩が道を覆うようになる。天保14(1843)年に、長田圓右衛門が十年の歳月をかけてこの岩道を開鑿し滝に至る道を拓いた、と石碑にある。この男の一途な努力も昇仙峡の更に奥にある金剛山に至る修験道の信仰心の賜物であったのだろう。ふと躓いた二十代はこうして 『恩讐の彼方へ』 を想い、萎えた心の支えを得たものだった。
仙娥滝は、怒涛のなかに俗世を忘れさせてくれる聖なる姿を体現している。滝の飛沫を浴びながら開鑿された岩場を登りきると、滝上には平坦な盆地が広がっている。大晦日の昼過ぎ、凛とした山間の冷気の中に、竃の煙が二本、三本と昇り、僅かに開かれた田畑は冬の霜に凍っている。「ここは、まさに仙人の辿りついた桃源郷だ…」と思った。暫く、村の一本道を往くと左手に「夫婦木神社」という縁結び子宝の神社が小高い山の中腹から村を見下ろしている。鳥居から見る村を霧のように覆っているのは、この世のものとも思えぬ長閑で平和な山村の匂いだった。
人気のないバス停で一時間に一本のバスを気長に待っていると、レトロなバスがゆっくりとやってきて、これに乗り込む。バスは、一旦山道を昇り、昇仙峡を大きく迂回しながら谷底に落ちそうな道をくねくねと時間をかけて甲府に戻っていった。
その後も暫くは、甲府への衝動的な逃避行は幾度か続いたような気がする。だが、やがて若気の至りも納まりそれなりの耐え性も備わって、昇仙峡に足を向けることもなくなった。あれから三十年。ふと改めて昇仙峡を昇ってみたくなった。花崗岩の露出した奇観と渓流は、あの時と同じように心を清めてくれた。昔のように仙娥滝脇の岩道を上り、滝上に出てみると、しかし、既にそこにはあの「桃源郷」はなかった。この三十年の間に「御岳昇仙峡有料道路」が無料化し、自家用車で難なくこの滝上まで辿りつくことができるようになった。観光バスの広大な駐車場ができて、何百人もの観光客を収容できる「ほうとうレストラン」がある。圓右衛門の名を冠した宝石店まであって、竃の煙立つ昔の山村の面影は、すでにない。
こうして人間は齢を経るのだろう。現在の若者にも、それなりの「桃源郷」があるのかもしれない。たとえば、バーチャルな世界の中にでも。世の中は、広くなったようでも、狭くなったようでも、ある。市内随一の老舗蕎麦店の「奥村」の古民家の座敷に坐りながら、地元の蔵の銘酒を飲み比べ、失われたわが桃源郷への想いを反芻する、そんな甲府の夜、であった。