エッセイ


「いつ殺されてもおかしくない、いつ殺してもおかしくない」―日常に潜む狂気

投稿日時:2012/06/02 02:41


 村上春樹が「それ」を直観したのが1Q84だとしたら、私が感じたのは90年代初頭である。
 象徴的だったのは、繁華街に谺する「ショーコー、ショーコー、ショーコーショーコーショーコー」という音階のはっきりない呪文のような歌と、白衣を着た、空を切る眼差しの不気味な集団。その時、かつて不可侵だった個人の尊厳に他人が平気で土足で踏込む時代、の予兆を感じた。
 いや、予兆というなら宮崎勤辺りだろうか。彼の犯罪は、世間が理解できなかった以上に彼自身にとって理解できなかった。犯罪という意識すらなかっただろう。一神教を持たぬこの国で、共同体の中にのみ維持されてきた倫理観が、その崩壊とともに霧散した瞬間である。
 その瞬間から、私たちは、ぬるま湯のように浸かってきた日常に潜む「狂気」あるいは「兇暴」を感じるようになり、ひとりひとりが、独善的に孤立していった。そして、正常と異常の境界が潰え去り、他人を慮る優しさも自信も失った。群衆の中の一人として感じる恐怖は、「いつ誰かに殺されてもおかしくない」と同時に、自分自身が「いつ誰かを殺してものおかしくない」こと。「あってはならない」と理性が縛っている一方で、他人の不用意な侵略にいつ自制を失ってもおかしくない自分を感じることがある。
 私がこれを痛感したのは、6年半のNYでの生活から戻った時だった。一神教の神の子であるアメリカ人の行動は理解可能である。宗教的倫理観が未だに日常生活を律しているからだ。犯罪とても例外ではない。それは宗教的倫理観からの逸脱でしかないからだ。しかし、この国は違う。倫理観が内在化されていた共同体が崩壊し、そこから解き放たれ、独善的に孤立化した人々は、理解不可能な行動とそして犯罪を不気味に掘り下げていく結果になる。私はこの国の混沌に眩暈さえ感じ、そして強い疎外感を味わった。
 正直なところ、今でも都心の繁華街を歩くことは怖い。「耳と目に栓をしながら」無関心に暴力的に振舞う傍若無人の人間が多い一方で、こうした恐怖に病的に怯える人々が多いことも痛ましい。この国は一体、どうなってしまったのだろうか。
 商店街を核としたコミュニティ街路の再生として「元町サポーターズ」を構想した根本的な理由はここにある。横濱には開港以降、海外に開かれた文化の中で培われた独特の倫理観が残っている。それは伝統的共同体の閉鎖性から脱し、キリスト教的倫理観の影響を受けたもので、これからの「新しい倫理観」のモデルになりうるとさえ感じている。そしてヨーロッパで3年半暮らしてみて、それは確信に変わった。自然と、そこに生かされているものとしての人間との、長い時間軸での共生。それがヨーロッパ人の哲学なのである。
 果たしてこの国は再生できるのだろうか。せめてこの元町を最後の砦としたい。
 


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