エッセイ


東横線上のアリア

投稿日時:2012/06/01 01:03


 ふと気付くと、東横線の上を往復する半生だった。
 産まれたのは武蔵小杉にある、現・聖マリアンナ医大病院。当時は東横病院だった。偶々、父の高校時代の親友がここで産婦人科医をしていて取り上げてもらった。津軽からの上京者であった貧しい両親は、その後暫く、文京区本郷の伯父の家に世話になっていたが、二足歩行ができる頃には、新丸子の多摩川の傍に貸家を得て、此処でもの心つくまでを過ごした。大好きな電車を近所の踏切によちよち歩きで独りで見に行き、警察沙汰となってパトカーで帰宅した、という逸話を聞かされている。
 その後、両親は横濱の山奥にあたる戸塚の丘の上につつましい家を建て、そこに越すことになるのだが、東横線との縁はその後も切れない。母が内職としていた洋裁の客が、新丸子時代の贔屓で東横沿線に住まい、しばしば手を曳かれ連れていかれた。
 小学四年になって独り息子の教育に意を決した両親は、横濱を離れ、都内に小さな建売住宅を買って移り住み、都会の子となった。やがて、日吉に教養学部のある私大に通うようになって、再び2年間、東横線の人となる。
 都心の、とはいっても古本の香りのする下町風情の会社に就職し、暫くしてから、横濱が懐かしくなった。そして再び、横濱に住み始め、東京に通勤することになる。JR京浜東北線を使っていたが、混雑とも相俟ってそれは味気ない往復の日々だった。やがて、東横線がみなとみらい線と繋がって元町・中華街に伸延する計画ができると、迷わずに元町の小さななマンションの一室を買った。横濱の田舎で育った者の究極の憧れだったのだ。しかし、その実現は六年、遅れた。
 こうして、未だに東横線で東京の職場との間を往復三時間近くかけながら往き来している。二つの大きな都市を、半生かけて往ったり来たりしているのだ。東横線は人生そのものと言っても過言ではない。
 近々、渋谷から先が副都心線と繋がって、東横線は埼玉方面へと伸びていく。G線上のアリア、いや東横線上のアリアは、こうして開かれ、閉ざされた美しき制約を喪ってしまう。
 そろそろ、横濱に腰を落ち着けて、このアリアを奏でる弦の往復もお終いにする時期、なのかもしれない。


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