エッセイ


山椒は小粒で・・・

投稿日時:2012/05/24 04:21


 この季節になると堪え性がなくなる。まめに八百屋に首を突っ込んでみたくなる。身の張ったラッキョウは出ていないか。暫くするとよく熟れて甘酸っぱい香りの南高梅を眼で追っている。透明な肌をした新生姜の甘酢漬けもいい。穂紫蘇の塩漬も熱々の白飯に適う。
 そして山椒の実である。山椒の虜になったのは随分と後年になってからだ。麻婆豆腐の辛さの本質が唐辛子ではなく山椒にあることを知った辺りだろう。軽く茹でて塩漬にしたものを手離せなくなった。山椒の実の塩漬の極意は、雑味となる柄をいかに奇麗に実から切り離すか、にある。どうしても実に近い最後の一節が残ってしまう。それこそ指を山椒色に染めながら、家人と二人して黙々と柄から実を捥ぐ作業が、この季節の風物詩である。特に山椒の実の旬は短い。機を逃すと山椒の実はあっという間に固くなってしまう。山椒の実の見立ても、当然、厳しさを増す。
 どうしてこうした「家内制手工業」が好きなのだろう、と思う。塩水で奇麗に洗った南高梅の蔕をきれいにとって粗塩で何重にも敷きつめた2ℓ壜を抱く様に眺めながら、梅の果実の香りに満たされて床に寝たことさえある。やがていい具合に梅酢が出ると、手間の掛かる赤紫蘇の塩揉みを加え、三日三晩の土用干でできた薄皮の上品な梅干しの秀麗な姿を夢見ながら。
 おそらくは津軽で林檎園を慈しんできた母方の祖父の血がそうさせるのだ、と自分を納得させる。蒸気機関車に曳かれるニ等寝台で煤だらけになって帰省する津軽のその林檎園で、収穫の際に自然への感謝の徴として僅かの林檎を枝に残すことを教えてくれた、林檎守の祖父の心根を継いだのかもしれない。
 美味く漬かれば近所にお裾分けをする。これが「お隣さん」と「ご近所さん」の原点であった。元町にマルシェを復活させたい、という街づくりの仲間たちの夢は、この原点を取り戻すことに、ある。そして、12年間続けてきたフードフェアの原点も、ここにある。
 壜の中で無事に塩に漬かった山椒の実を眺め、香りを愉しみながら、そんなことを考えた。


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