エッセイ


春爛漫の元町より

投稿日時:2012/05/22 05:02


 元町から山手に薔薇の季節が巡ってきた。先ずは仲通りを右手に折れて、水屋敷通りから元町公園に抜けて欲しい。この道を聞いて顔を顰める方は相当な元町通である。通り沿いに親分邸があって若い衆が立ちんぼをしていたので、この道は通り辛かった。しかしようやくその道が開放されたのだ。
 沿道の飲食店は長い間これに苦慮していた。手打ち蕎麦屋は泣く泣く店を閉めた。そして七年間苦労を続けてきた寿司屋の女将は「水屋敷通りに春が来た」とその僥倖を心から喜んでいる。
 元町公園の薔薇は数は少ないが、ジェラールの湧水に清められた清楚な輝きと香りを放っている。桜の季節を過ぎると訪れる人も少なく、薔薇を静かに愉しむ穴場かもしれない。それから、ジェラールの残した豊かな灌木の林の細道へ、プールの右手の階段から登って欲しい。ジェラール研究の結果分かったことは、彼はこの清明な湧水の質を維持するために貪欲にこのブラフ77番他の土地保有に固執した。結果的にそれが都市部にこれだけの深い森の自然を残すことになったのだ。いわば「ジェラールの森」なのである。この土地にはフランス山のような公園整備は要らない。今の自然にメスを入れた瞬間、百六十余年に亘って護られてきたこの清水は絶えてしまうからだ。
 山道を登りきるとエリスマン邸の庭に大輪の薔薇が並んでいる。この洋館を背景に薔薇を見ると、何故横濱の市の花が薔薇なのか、分かるような気がする。その花は震災で潰え去ってしまった居留地の庭々に植えられた優雅な「舶来の象徴」だったのである。初めて見る日本人には、それは夢のような遠い邦の憧れであったに違いない。
 そこから山手本通りを海側に向かって歩いていくと、やはり移築洋館である山手資料館の庭の薔薇が美しい。さらに外国人墓地脇を道伝いに歩いて、港の見える丘公園を入ると、右手にイギリス館(旧イギリス総領事公邸)の裏庭にあたる薔薇園が開け、ここはまさにエデンの園である。かつて、この薔薇園を背景に昭和初期のコロニアルスタイルの建築をスケッチする人々の列の一人となったことがあるが、それは実に心地よい一日であった。
 こうしてこの季節の元町・山手は、薫風に薔薇の香りを漂わせている。


Powered by Flips