エッセイ


「侵略」と「融和」

投稿日時:2014/06/08 09:16


 生涯一社会学徒を自認する身として新進気鋭の社会学者の著作に接する機会は多いが、上野千鶴子ほど刺激的な社会学者はいない。有名な彼女のジェンダー論は実に痛快で、日本人の社会化における性差別の深層を容赦なく暴露していく。男性の癖に、と思われるかもしれないが、実は人間の「存在被拘束性」とは社会学の重要なテーマの一つであり、性差別に限らず人間をイデオロギーから解放してくれるための「謎解き」、いわば「自己解放」のための手段と言っていい。つまり、上野千鶴子はジェンダーを語りながら、実は日本人の、あるいは人間存在そのものの存在被拘束性を明らかにしているといっても過言ではない。社会学者としての評価基準をそんなところに置きながら読んでいる。

 上野千鶴子の偉大なる功績は彼女自身の研究成果にも増して、東大大学院教授として若い社会学者を育成していることにもある。フクシマ論を著した開沼博も、団塊ジュニアの労働問題をフィールドワークを通じて提起している阿部真大も、彼女の門下生である。いずれも日本人の社会化に潜む存在被拘束性が生み出す社会問題を深く掘り下げている点において、師の広い視野と射程を継承している、と言ってよい。その表現力という点においては、師に遠く及ばぬところではあるが。

 さて、もうひとつの課題。本ブログ2012年7月8日 『日本建築の秘宝ここにあり!―ソウル路地裏放浪記⑤』 に記した「ある疑問」は、その後も常に脳裏を離れない。日本統治下の1925年に竣工した旧京城駅舎を、ソウル市民は何故、侵略の象徴として破壊することもなく、美術館・博物館として大切に保全・改修しているのだろうか。この一事を以て、「侵略」という言葉を教科書から消し去ろうと目論む輩たちは、大陸への日本の「進出」こそがその近代化の礎となった、と主張して憚らないが、真実はどうなのだろう。ジェンダーと同じく、融和政策(「五族協和」)や技術指導といった大陸侵略の正当化は、まさしく富国強兵と領土拡張策による近代化の価値観を埋め込まれた戦前の日本人の、存在被拘束性であった、と言っていいのではないか。しかし「差別」(あるいは「侵略」)の問題は、常に差別を受ける側の意識の問題である。例えば従軍慰安婦問題は、この侵略の禍根を背負った外交・政治問題として議論されがちだが、真実を知るためには、一旦政治的主張を中断し、当事者の意識に耳を傾ける作業に取り組むべきであろう。

 あるいは、そんな「課題」解決の緒(いとぐち)になるのではないか、と駆り立てられたのが 『官展にみる近代美術』 展であった。「日展」「院展」といった戦後の公募展のルーツとなったのが、1907(明治40)年より始まった「文展」(後の「帝展」)だったが、これは国(文部省)が美術振興を目的に主催した、いわば「官展」であったことは周知のことである。そして、日本統治の進展に併せて、ソウル(「朝鮮美展」)、台北(「台展」「府展」)、長春(「満州国展」)として、統治下各地で同様の「官展」が開催されることになった。梅原龍三郎、藤島武二といった中央画壇の重鎮がその審査員となり、朝鮮、台湾、満州の美術家と交流し、これを育成していくと同時に、日本の画家たちである彼等自身の作風にもそれは影響を与えていくことになる。侵略という政治的な背景を除いて考えれば、これは一種の文化融合であって、異文化の接触によって双方の文化変容が生ずるというきわめて相対的な文化変動のプロセスと考えることができる。

 各国の美術館の収蔵品を一堂に集め、日本美術と朝鮮、台湾、中国(満州)美術の文化融合の実態を解き明かすことによって、「侵略」と「融和」の二律背反に潜む真実が見えてくるのでは…という実に意欲的で貴重な美術展のように思えたのである。こうして、梅雨入り前の初夏を思わせる陽気の中、府中市美術館にほど近い京王線・東府中駅に降り立ったのであった。その昔、武蔵国の国府があった、ということ以外に府中という街に何ら予備知識はないのだが、実に緑豊かな街であった。東府中から古い商店街の面影の残る通りを北へ向かい、航空自衛隊府中基地を左に折れると「府中の森芸術劇場」の見事なファサードが現れる。ゆったりとした敷地を活かした白亜の建物には三つものホールがあり、クラシックコンサートから演歌、現代演劇から歌舞伎、文楽、そして落語まであらゆる演目を揃えている。雄大な自然に囲まれながら文化的な民度の高い行政の一端を垣間見た。

 劇場の裏手が「都立府中の森公園」となっている。武蔵野の自然をそのまま公園にしたような深く広大な緑地はまさにドイツの近郊を思わせる。緑の芝の丘の上で、思う存分に幼子を遊ばせる家族の輝く笑顔が実に眩い。数百メートルにも亘ろうかという深緑の桜並木の右手に、府中市立美術館は立っていた。

 入館早々に偶然にも、国立台湾美術館の学芸員でこの国際的な美術展の実現に多大な貢献をされた薛燕玲(セツ・エンレイ)さんの講演を聞くことができたのは幸運だった。彼女は1896(明治29)年の台湾総督府による日本統治から終戦に至る、日本画壇による台湾美術への影響を語った。何より、従来遠近法の存在しなかった中国美術の影響下にある台湾で、既に西洋絵画の技法に習熟した日本人が、初等図画教師養成のために、写生技法による水彩・油絵を推奨し指導したのが、その発端であった。これが台湾書画会という民間美術組織の結成を促し、やがて総督府主催になる1927年「台湾美術展」へと発展していく。従って、台湾美術への日本美術の影響は、日本画の影響というより、既に日本近代化で培われていた西洋美術の影響力が主たるものであった、といえる。特に、初期の日本人指導者や台展審査員である日本人画家の画風による影響が大きく、例えば鹽月桃甫はナビ派やキュビズムの作風を台湾画壇に残したりしている。

 彼女が紹介した台湾人画家の中で最も印象に残ったのは、1943年に「府展」に出展された、蔡雲巖(ツァイ・ユンイエン)の描く「男孩節」という作品だ。日本画風の柔らかい色調で、チャイナドレスの母親と三歳児位の男児を描いた端午の節句の画である。母親はブリキでできた戦闘機の玩具を男児に与えようとしているが、男児は口に指を銜えながらそれを無表情に見ている、という戦時色の強い画題となっている。彼女の説明では、この玩具の戦闘機の主翼には当初日の丸が描かれていたが、戦後、国立台湾美術館に収蔵されるにあたって「民国旗」に描き換えられた、という。

 薛さんが2時間半に及ぶ講演の中で、日本統治下の日本美術の影響力について殆どポジティブな発言しかしなかったのは、小さな講堂に所狭しと集まった50名ほどの日本人の聴衆に儀礼的な配慮をしたものであることは想像できたし、司会をした府中市美術館の学芸員も、敢えて彼女がネガティブな側面を語らなかったのだろう、という推測を述べていたことも当意即妙である。しかし、一方で、日本統治下の台湾で、日本人指導者や審査員たちが台湾の画家たちに原住民や台湾の習俗を画題として積極的に描かせたという事実や、彼ら自身が台湾の土着性に根付いた作風へと変わっていった事実に直面するとき、政治的な枠組みを取り除けば、この台湾における芸術活動は、双方向的で相対的な文化融合であったことを想像させる。反語的に言えば、政治的には侵略する側とされる側があったにせよ、美という共通の価値観を追求する芸術家にとって国境を越えた異質なものとの接触と融合は、新たな高みへのステップに他ならない、といえるのだ。玩具の戦闘機の主翼に描かれているのが日の丸だろうと、民国旗だろうと、その作品の芸術的価値に何ら影響を与えるものではない。

 しかし、である。何故、蔡雲巖氏がこのような戦時色の強い作品を描かなければならなかったのか。そして、今回の出展作品に描かれた民族衣装を纏った女性達に共通する、何故か物憂げな表情が何処から来るものなのか、いま一度わたしたちは想像を巡らせてみる必要があるだろう。これは戦前の「戦争画」を巡る議論にも通じる「深い闇」である。画家は意図的に権力に迎合したのではないのかもしれない。時代を映す鏡としての、あるいは来たるべき未来を描く者の使命としての、純粋な創作意図のもとに創作を行ったとも想像できる。また、「侵略」されたという事実よりも、戦争という非人間的行為こそが、その「暗さ」の原因だと考えることもできよう。被侵略、あるいは被差別という境遇にありながら、しかし、現実を肯定することによってしか未来を描くことができない、という深い二律背反が、そこには存在しているように思える。

 こうして、この美術展で朝鮮、台湾、満州の画家たちの作品から「侵略」と「融和」の本質を読み取ろうとした努力は水泡に帰したようだ。結局、芸術家たちは自らの生活圏と想像力から作品を生み出すという点において、それは第一義的には政治とは切り離されたものであるし、一方で、その生活圏と想像力は政治と全く無関係には存在し得ないものでもある。つまり、芸術家たちは「理想」と「現実」の間を、絶えず大きく揺れ動きながら創作していることになる。政治的な「侵略」と、文化の壁を超えた「融和」という個人的な人間的営為の間には、様々なバリエーションが存在している、ということである。台湾人画家の描いた台湾人女性の憂いは、侵略によるものかもしれないし、旧い生活の変貌への不安であったのかもしれない。

 それにしても、と思う。李澤藩の描く関帝廟よりは、梅原龍三郎の描く台湾風景の方がしっくりするし、金仁承の描く女性像よりも、藤島武二のチョゴリ像に魅力を感じてしまう。文化には表面的な融合だけからは捉えきれぬ深層があり、それがゆるぎない文化の本質でもある。結局、わたしたちは最後まで、日本人としての「存在被拘束性」を抜けきれない、のかもしれない。

 美術館を出ると、まさに盛夏のような陽射しが西に傾く頃であった。豊かな湧水のある公園の水辺を、鴨が一羽涼しげに水浴びをしている光景に、ふと我に帰り、今日もまた夕暮れの冷えた麦酒の一杯を求めに、北へ向かうバスに飛び乗ったのだった。


 



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