その男は、静かにゆっくりとした口調で言葉を噛みしめるように語りはじめた。中学時代の同級生である。社会人になった直後の同窓会以来だから、かれこれ三十年ぶりの再会となる。それ以降、私は東京の雑踏を忌避して横濱に暮らし、やがてNYに赴任し、デュッセルドルフへ転勤もし、帰国して元町に戻り、そして古巣の東中野へ帰ってきた。彼は建築学部を卒業後一級建築士となって自分の事務所を構えたが、経営に行き詰って、今は雇われ建築士をしている。その間、東横沿線の閑静な街に住み、一人娘を今春ようやく美大に入学させた。
海外に棲む間も律儀に賀状の交換は欠かさなかった。中学時代は共に学級新聞を編集し、私が記事を書き彼がイラストとレイアウトを担当した。自分にはないお互いの才能を尊敬しながら、ある共通の土台を確認しあう仲であったのかもしれない。ウマが合う、というのだろう。
中野駅北口のカウンターばかりの小さな焼鳥屋。主人は私と同じ津軽人二世で、青森シャモロックという軍鶏とプリマスロックの交配でできた歯応えのある深い味わいの鶏肉を扱っている。特にレバ、砂肝、胸肉の新鮮な刺身は多店の追随を許さない。日本酒にも強い拘りがある。その美酒、肴をじっくりと味わいながら、彼は訥々と三十年を語り始める。
いや正確には、彼の語っているのはつい一時間ほど前の出来事だ。彼の趣味は文房具のコレクション。今日も世田谷の現場を早めに引き上げて、久し振りに中野駅周辺を歩いてみた。古い文具店があると売れ残った古い文具を見せてもらい、廉く纏め買いをする。世界中には日本の文具に熱烈な執着を持ったコレクターがいて、それこそ70年代の万年筆に驚くほどの値がつくこともあるらしい。
そんな彼が中野駅周辺を当てどもなく散策していて、ふと巡り合ったのは彼の老母だった。吉祥寺でバーを経営していた連れ合い(彼の父)を十余年前に癌で亡くし、今は出戻りの次男(彼の弟)と実家で同居しているのだが、不自由な脚を引き摺りながら駅周辺で買い物をして駅前からバスで帰宅するところらしい。話を聞けば私の母と同じく認知症を患っているばかりでなく、過去には極度の鬱病で入院したこともあるのだという。
彼はそんな腰の折れた老母の姿を目にしながらも、声を掛けることなく私との待ち合わせ場所にやってきた。憎んでいる訳ではないが、素直に声を掛ける気にはならない。そして、そんな自分がまた、嫌になる。と、彼は言った。…境遇ばかりでなく、そんなところまで、私にそっくりだ、と思った。事実、彼自身も心を病んだ経験がある。事務所の経営に行き詰った頃だろうか、何度、現場の高所の足場からこのまま落ちてしまおうと考えたか知れない、と言った。
「俺は、こんな仕事をしているが、実は高所恐怖症なんだ。でも、そんな経験をしてから、高い場所が怖くなくなったよ。」 私は声を上げて笑った。これが彼のユーモアなのだ。ウイット、といった方がいいかもしれない。
私は二人の共通の知人であるクラスメートのA君の話をした。彼も私と同じ一人っ子で、父親が編集者という共通点から中学時代、よく連れだって博物館巡りをしたような仲だった。別の高校に進学して離れ離れになって以降、四十年の間、欠かさず賀状の遣り取りをしていた。彼は、地方の国立大学の工学部を卒業し、技術職として大手電機メーカーに就職した。大学時代、アメラグの選手をしていたというのは、中学時代の青白いインテリの側面しか知らなかった私には意外なことだった。やがて彼は普通の家庭を持ち、郊外に戸建の家を持ち、三人の子宝にも恵まれ、歳を重ねるごとに賀状の写真の中の子供達は成長し、やがて反抗期になると写真は消えて、家族の名前だけとなり、そして最後は夫婦だけの差出人になる。
四十年もこうして続いてきた彼からの賀状が突然途絶えたのは三年前の事だ。健康でも害したのかと心配になりながらも確認の術はない。そして、翌年…。
「突然、上海から見慣れぬ年賀状が届いたんだ。最初は仕事の関係かと思ったのだが、よく見るとA君の名前がある。海外拠点に赴任したのかとも思ったのだが、実は差出人は中国人女性との連名になっていた…。」
彼と私は、それぞれが経てきたこの三十年を走馬灯のように頭に過らせて、そして暫く押し黙った。一瞬、うらぶれたトリスバーの暗がりで、二人の時間が止まったような気がした。そう、これは既に二軒目の宿り木での会話である。不幸にして私の腕時計が止まっている間に、かれこれ四時間が経とうとしていた。
こうしてとりとめのない話をして二人は別れた。彼は、別れ際、つい最近この世を去った安西水丸のことを目を輝かせながら語った。彼には、私の大好きな 『手のひらのトークン』 という珠玉の名作がある。電通NY時代の経験を小説にしたものだ。私もいつかあんな小品が書けたらな、と思う。
私たちは孤立していても、決して孤独ではない。私も彼もネットのコミュニケーションを信頼していない。そして、仕事を通じた人間関係には、ともに唾棄するほどに幻滅している。自分の置かれた境遇に時にネガティブになったとしても、「自分の鏡のような友人」は必ず何処かに存在している。これだけの人生を、生きてきたのだから。諦めては、いけない。