エッセイ


風のない場所

投稿日時:2014/03/09 08:01


 やはり、齢五十五にして資格試験への挑戦は、少し無謀だったのかもしれない。いくら学んでも記憶は脳から零れ落ちていく。なかなか成果も上がらない。しかし、出歩く機会の少ない冬場の学びは、何処か夜鍋仕事に似た愉しみがある。成果上がらずとも、コツコツと手仕事ができるのは、東北人の血の恩恵といわずばなるまい。「何かを学ぶこと」は即ち「未来を信ずること」につながる。夜鍋仕事は暫く続きそうだ…。

 今年の冬は長い。三月に入れば三寒四温が始まり、気紛れにも春めいた陽気を楽しむことができる頃なのに、一昨日の朝もベランダの置き水に薄氷が張った。春の高気圧の間隙を縫ってシベリア寒波が居座り続けているためのようだ。お蔭で随分長いこと、寒ブリと鱈の白子が楽しめる冬だ。しかし、流石に身体も鈍り気味で、意を決して新宿御苑に梅見に出掛けることにした。

 東中野の我が家からは、中央・総武線で千駄ヶ谷まで出て、千駄ヶ谷門より入るを常としている。駅を出て、来た線路を戻って潜り、人通りの少ない細路を少し上ると、門際には既に美しい白梅が花を咲かせている。梅の花には「咲き誇る」という言葉は似つかわしくない。人知れず漂う春の気配を静かに寄せ集めた慎ましい美しさである。冬の路地を肩窄ませ歩きながらふと巡り合う、春告げの使者である。良く晴れた青空に延びる枝の勢いは、眠っていた活力を呼び覚ます。

 門を入り、大木戸門に向かって歩いていくと、池の端一面に小さな黄色い花を咲かせた灌木を見つけた。遠目に蠟梅に見えたが近づくと小さな黄金色の花が一塊になって咲いていた。案内板を見ると「春黄金花(山茱萸・サンシュユ)」とある。「茱萸」とはグミのこと、中国から来た薬木のようだ。初春の花は色彩のない冬のカンバスに、こうして春の訪れを知らせる絵具を落としていく。梅もさることながら、啓蟄を過ぐれば、他と見紛う前に、真っ先に花をつけるのもひとつの道理だろう。

 更に大木戸門に向かって散策を続けると、右手には有名なプラタナスの並木がある。北部ヨーロッパで暮らしていると実に馴染み深い木だ。5月下旬、その薄い黄緑色の葉を一気に拡げて北国の遅い春の訪れを感じさせてくれるのは河辺に並ぶこの木だ。しかし、冬場はその灰白色の固い幹がまるで身を守る鎧のように見える。大木戸門脇の「玉藻池」際の白梅は花開いたばかりの初々しさで陽溜りに輝いている。

 大木戸門から今度は西の新宿門に向けて歩く。途中に昨年完成したばかりの大温室がある。小さな丘に立つ緩やかな曲線に縁取られた硝子のシルエットが青空に映えて実に美しい。中は暖かく、珍しい蘭の数々に巡り合える。更に西の洋館「御休所」を経てエコハウスに出ると、その前に小さな梅林が佇んでいる。花はまだ咲き始めたばかりだが、梅林は梅の枝ぶりの響演が楽しめる。まさに浮世絵が好んだ題材である。

 新宿門の近くでは小さな河津桜が満開だった。何処か季節感を取り違えた桜のような気もするが、一気に咲き散るソメイヨシノと対極に、その淡い桃色の花弁は「個の美」を主張している。いつも思うことだが、河津桜の桃色は写真に撮るとどうして濃くなるのだろう。肉眼でしか味わえない、ボナールの絵のような色彩、だと思う。

 こうして、新宿門を出ると、再びそこには都会の喧騒がある。冷たいビル風に身を屈めながら、ふと、御苑の陽溜りを思い出す。そうえばあの場所に風は吹いていなかったのに。土が春の日差しを受け止め、あるいは周囲の巨木が風を堰き止めていたのだろうか。風の通り道となっているだけの、コンクリートと石と硝子に覆われたこの都会の中にも、「風のない場所」がある。…そう、思った。



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