エッセイ


桃源郷があるならば―松本風土記 ②

投稿日時:2013/11/10 06:28


 とりたてて理由があった訳ではない。遅い夏休みに選んだ10月初旬の松本では多くの学会が開催され、偶々松本入りをする最初の一日だけ、市内の宿が満室だったのだ。それでは、折角なので「足を延ばして」初秋の上高地を訪ねてみよう、ということになった。

  山に対して特段の思い入れのある方ではない。ただ、十年前にこの世を去った父の若き日のアルバムには、セピア色に変色した上高地の白黒写真が数多く残されていた。それを見ても、そんな「絵葉書のような風景」がこの世に存在するものだろうか、と思ったばかりである。父は津軽平野に育ったが、津軽富士と呼ばれる岩木山に、津軽人は独特の思い入れを持っている。遅い春、林檎の花に染まった津軽平野の中央に孤高に聳える岩木山は、永い冬に耐えた北の人々にとって、いわば命の息吹を感じさせる、未来の象徴でもあったろう。或は、足繁く父を上高地へと駆り立てたのは、そんな理由だったのかもしれない。

 昼前に松本駅に滑り込んだ「あずさ」を降りると慌ただしくJRに並行する松本電鉄に乗り換える。私鉄である筈なのにJR松本駅とは改札もなく構内で繋がっているほどに、生活の足となっているのだろう。4両編成の小さな単線はシニアの登山客と、沿線にある私立大学の学生たちで一杯になった。

 ローカル線は松本盆地を西へ西へと進んでいく。重いエンジン音を響かせるその老車両に妙な懐かしさを覚えた理由を探っていると、製造プレートを見て、高校時代に通学に利用していた井の頭線の車体であることに気がついた。或は、その頃乗っていた電車が、そのままここで第二の人生を送っているのかもしれない。途中目にした引込線には、更にその数世代前の緑色の車体さえ残されていたので、この想像はやがて確信に変わっていった。

 現在ではアルピコ交通と名を変えた松本電鉄は、いわば登山鉄道である。盆地を走りながらなだらかに登っていくあの感覚は、小田原から箱根湯本に向かう箱根登山鉄道に似ている。事実、途中の松本大学で学生たちが一気に降車してしまうと、残されたのは有り余る時間を楽しむシニアのトレッカーあるいは登山客ばかりとなる。プチ鉄っちゃんとしては、この松本電鉄自体に大いに興味をそそられるところ(沿線巡りで1日を費やしてもいい)だが、目的地の上高地までは終点、すなわち登山道入り口にあたる「新島々」(しんしましま)から更に一時間半のバス路が残されている。それにしても変わった駅名の多い鉄道である。

 バスに揺られて、上高地のバスターミナルに着いたのは既に午後三時に近かった。嘗て見たこともない雄大な北アルプスの山々に圧倒されながら、河童橋脇の宿にとりあえず荷を降ろすと、少し時計を気にしながら、大正池まで徒歩で南下することにした。このコースはそれこそハイヒールを履いてでも歩けるごくごく初歩のハイキングコースではあるが、梓川の渓流の音と四方を埋め尽くす雄大な尾根尾根、そして無垢のまま残された美しい自然を満喫することができる。往復僅か二時間の徒歩路を歩きながら、奥の細道の自然に対置して人生の儚さと可笑しさを詠んだ芭蕉の心を辿った記憶が、35年の歳月を超えて、ふと蘇った。

 こうして人間は山に嵌っていくのだろう。昨今、シニアの登山がブームになっているが、これは団塊の世代がシニアになって偶々増えたためではなく、あるいは芭蕉と同じく加齢とともに、再び自然へと回帰していく、人間の性の故なのかもしれない。決して「山で死ぬなら本望」だとは思わないが、芭蕉の旅ごころは山頭火、放哉が倣ったように、人をして自然へと足を向かわせしむる。上高地を愛した父の気持ちが、少し辿れたような気がした。

 山を愛する、とはそもそもどういうことなのか。上高地のバスターミナルの観光客の賑いは、あたかも山を愛する心とはそぐわないような気がする。上高地を訪れた「観光客」(つまり、トレッカーや登山客を敢えて除外すると)たちの「チップ制トイレ」への反応を見てみれば、それは分かる。実は、海外で生活してみるとこの方法は決して不合理ではないことが肌感覚で理解できるのだが、こうしたことに慣れていない観光客たちは「なぜ、トイレごときにお金を払わねばならないのか」と疑問を抱くことだろう。

 小用を足した後、入口に置かれた募金箱に100円をポトリと落としながら、この美しい自然を維持するために、これほどの大勢の観光客の排泄物がどのように処理され、その汚染から自然が守られているのか、に思い至ることが、「山を愛する」ことの本当の意味である。昭和63年から平成4年にかけて、大規模な下水処理施設の工事が行われ、河童橋近辺の宿泊施設等から敷設された下水道管によって、梓川・田代橋下流の下水処理場まで運ばれ、ここで微生物により浄化されることにより、自然への負荷を軽減している。夏場の観光シーズンには一日1,400トンの下水が処理され、これは5,000人規模の市街地の処理機能に匹敵する、という。

 であるからして、このような自然を保護すべき場所に来て、やれ食事が不味いだの宿が狭いだの不平を並べてはいけない。自然への負荷を軽減するためにチップ制のトイレは当然のことと考えなくてはいけない。人間は自然に生かされている、ということを改めて、痛烈に反省すべきなのである。

 こうして、河童橋脇の宿で慎ましい一夜を過ごし、早朝、鳥の声に誘われて部屋のカーテンを開くと、そこには水墨画のような朝霧に佇む明神岳の美しいシルエットがあった。ひんやりとした早朝の空気を吸い込みながらその風景に見とれていると、朝陽が上るに連れてやがて霧は晴れ、東の尾根から差し込む陽の光が、次第に明神岳の杜の樹々の深い秋色を照らし出して、陰影を作っていく。僅か30分ばかりの間に、山は表情を変えた。そう、「松島は嗤うがごとく、象潟は恨むがごとし」と風景に表情を与えたのも、芭蕉、その人であった。

 こうして半ば偶然に、松本を素通りして上高地に最初の宿を取ることになったこの旅によって、松本という街に住む人を改めて見つめ直すことになった。風土が人を形づくる、そんな旅の記録は続く。

 



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