エッセイ


鳥になったら

投稿日時:2012/04/21 06:27


 昔、猫を飼って感じたことがある。猫は本当は鳥になりたかったのではないだろうか。自宅の二階にある部屋の窓から、猫は飽くことなく裏庭の木立に鳥の姿を追っている。時にはその茂みに身を潜め、分不相応にも木の幹をよじ登って枝に留まる鳥に辿り着こうとさえする。挙句の果てによじ登った木の高さに恐れをなして二、三日降りられなかったりする。窓から、猫は時に鳥に向かって話しかけることもある。これは既に獲物を狙っているというのではない。猫は鳥に憧憬を抱いているのだ。
 人間もこの猫の潜在意識を脳の旧皮質に焼き付けている、多分。だから、鳥瞰に憧れるのだろう。ジオラマの魅力はそこにあるのだ、と思う。昨今では、ジオラマ風に撮影できるカメラさえ市販され、この「鳥になりたい」という人間の欲望は容易に満たされるようになったようだ。それでも、ジオラマには三次元の移動による街の風景の移り変わりを楽しめる良さがあるだろう。
 NYはグラウンド・ゼロを俯瞰できるWorld Financial Centerをハドソン川側に移ると、大西洋の河口の向こうに自由の女神が遠く見える。川辺の風景を楽しみながら廊下を北に向かって歩いていくと、ふとそんな窓際の一室にNYのジオラマが据えられていることに気付いた。冬の陽は西に傾きかけ小さく見える自由の女神を背景にこのジオラマを写真に収めると、それはまるでマンハッタンを飛ぶ鴎の鳥瞰のごとくであった。
 駐在員時代に日本からの来客のたっての願いで、マンハッタン・ツアーのヘリに同乗したことがあったが、生きた心地がしなかった。あのヘリは年に一度は落ちる、と言われている。猫と同じように、木によじ登ってしまえば、恐怖で降りられなくなる。やはり、ジオラマあたりが一番、罪がない。


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