山野で育った子供の頃には様々な生き物を飼った。アメリカザリガニ、泥鰌、ゲンゴロウ、蛙、蟻、カブト虫、クワガタ、カミキリ、カナブン、蜻蛉、蝶、蝉、ヤモリ、イモリ、トカゲ、蝸牛、蟋蟀、飛蝗、蟷螂、沢蟹、海蟹、アメフラシ、タツノオトシゴ、金魚、メダカ、文鳥、カナリヤ、雀、犬、猫…。
子供というのは残酷なもので、近所の遊び仲間と谷合の田圃に出掛けて、ザリガニや蛙を獲っては、誰知れず屑山から持ち出した古鍋で茹で上げたり、小さな水槽に許容量を超えて、獲れ過ぎた泥鰌を詰め込んだままにして、酸欠で一気に死なせたりしていた。だが、こうした経験があるからこそ、人間は命の尊さを識るのであろう。だから、自然に恵まれた横濱の山村には、仲間を死に至らしめるような「いじめ」は存在しなかった。
もうひとつ、こうして田畑を遊び場にしていて学んだことがある。春本番を迎え菜の花咲き陽炎の立ちのぼる頃、モンシロチョウを獲りに捕虫網を手にキャベツ畑へと出掛ける。モンシロチョウが飛び交うキャベツ畑のキャベツはもう、青虫たちの餌にされて葉も穴だらけ。外側の葉の裏を注意深く探すと、産み付けられた小さな象牙色に光るモンシロチョウの卵を見つけることができる。これを持ち帰って孵化させ、青虫から蛹に、そして蝶となるまで、飼い育てるのである。蛹の鎧を抜け出る羽化は実に美しく感動的で、アゲハをはじめいくつもの蝶の青虫を飼うことになった。
だから、村の八百屋で買うキャベツにも虫食いの跡はあったし、それが極く自然のことだと考えていた。今、近郊の畑を目にしたとき、青虫の食い跡もなく、美しく葉を重ねた「規格品」のキャベツの畑に、一匹のモンシロチョウも飛ばず、キャベツが無傷であることを、不思議に思う。いや、少し、恐ろしいことだと思う。
古道の道行が切っ掛けとなって、土曜日の昼下りになると、高円寺に「買い出し」に出掛けることが多くなった。『「点と線」あるいは暮らしの彩り』 でご紹介した「とよんちのたまご」が手放せなくなってしまい、毎週末にこれを買い求めることが習い性になって、やがて東中野では手に入らない安くて新鮮な生鮮食料品を探し始める。高円寺北口を出ると、人出の多い週末の昼下りでもとりわけ賑やかな一角が駅前広場の北西にあることに気付く。
古くから地元に住む人によると、もともと戦後の闇市がそのまま残ったような一角らしいのだが、細い路地を挟んで、八百屋、魚屋、肉屋そして総菜屋が小さな間口で軒を連ねているのである。日曜日は休みなので、土曜になると一週間分の食材を求める地元住民でこの界隈は溢れ返る。だから、売り物も新鮮で廉い。「とよんちのたまご」を買い求めた後は、このマーケットの客となる。
或る時、八百屋のレジに並んでいたら、その脇にあるハーブの小さなプラパックの中で蠢くものがある。ふと手にとって翳してみると、あの懐かしい青虫がさっと葉の間に頭を隠した。虫などを見たこともない若い奥さんがこのパックを開けたら、多分卒倒してしまうだろうなぁ、などと想像しながらも、何故か少し幸せな気持ちになってパックをもとの場所にそっと戻した。実に画期的なことである。無農薬を謳ってはいないが、少なくとも青虫が生育できる環境で、この野菜たちは育っているのだ。
こうして、この八百屋への信頼は格段に高まった。或る日、この八百屋で5束100円也の三つ葉を買ってお浸しにでもしようと水洗いしていたところ、カタッとシンクに米粒のようなものが落ちた。拾い上げてみると蝸牛の幼虫である。そのまま水に流してしまうのも忍びなく、50年振りに蝸牛の里親となることにした。
それから毎朝、小さなジップロックの容器の底に紙のキッチンタオルに水を浸ませたのを敷き、薄切りの胡瓜を載せて、三つ葉や紫蘇といった薄手の葉物を置き、蓋の代りにガーゼを掛けて蝸牛の世話をするのが日課となった。米粒ほどの巻貝を背負った蝸牛の幼虫を胡瓜の断面に載せてやると、小さいながらもツノを出して食事を始めるのが、いとおしい。
こうして三ヶ月が経った。最初は髪の毛のようだった糞も次第に鉛筆の筆跡ほどになり、巻貝の大きさも黒豆ほどに成長した。行動も活動的になり、これ以上、ジップロックの狭い空間に閉じ込めておくことは詮無い。かといって都心の緑地に放したのでは生涯、伴侶に巡り合えることはないだろう。
こう考えて、人伝に聞いた蝸牛の生息地を訪ね、私鉄沿線の郊外の、ある川辺にある雑木林に放すことにした。当面の雨を凌ぎやすい葛の葉に蝸牛を放すと、良き伴侶に恵まれ、天寿を全うすることをこころに祈った。子供の頃の数重なる殺生の恩返しに、少しでもなったのだろうか。そのとき、ガラケーのカメラのシャッターを押す手は、少し震えていた。