幼児がはじめて恋を識るのは牽牛織女の悲話からではないだろうか。幼稚園の頃、近所のクラスメートの女の子の家に招かれて、七夕の祝いをしたのが恋心を抱いた最初だったような気がする。いや、おそらくは、その後も続く想像力の悪癖の故に、この説話に自らと彼女を投影してしまった結果、淡い憧憬の記憶として残ったに過ぎない、というのが正確だろう。長じて、未だにストーカーになっていないことだけが唯一の救いである。
こうして子供の頃、七夕の笹飾りを笹に結びながら聞かされる牽牛織女の悲話は、今でも男と女の出会いに対する潜在的な期待を七夕まつりに与えているのではなかろうか。いくら齢を重ねても、浴衣を粋に着こなして七夕まつりに集う若い男女の輝きを目にすることは、昔見たこの儚き夢を思い起こさせる。…そんな思いに誘われて、30年ぶりに「阿佐ヶ谷七夕まつり」を覗いてみる気になった。
いまや商店街の手軽な活性化イベントとして全国各地の七夕まつりが有名になったが、阿佐ヶ谷は今年60周年を迎えるというから、走りの方であろう。因みに、仙台は昭和2年からというから、かれこれ90年近い歴史を持つ。二十歳を迎えるにあたって東京・仙台間の徒歩旅行に出た際、這う這うの体で辿りついた仙台は既に旧盆も終り、秋風立つ中に、駅に唯一残された七夕飾りに、まつりの余韻を感じたことを覚えている。その後、社会人になって身近な阿佐ヶ谷でも七夕まつりが開催されているのを知って出掛けたのがほぼ30年前ということになる。
その時、陽も下り涼やかな夕風に灯篭の吹き流しが靡くさまを、団扇片手に眺め歩くことに風情を感じたものである。飾り物も今ほど派手ではないが、千羽鶴のような手作り感のあるものが多く、商店街の人々との心の交流があったような気がする。ドイツから帰国後、元町から平塚の七夕まつりを見に行って、しかし、幻滅した。七夕飾りもセルロイド製の出来合いのものが並び、街とは無縁の的屋の列が立ち並んで怪しげな食べ物を売りとばし、無法者の若者達がこれを食べ散らかし街を汚すだけの、そんな七夕まつりがあっていい訳がない。
そんな経験もあったものだから、少し心配していたのだが、やはり阿佐ヶ谷は阿佐ヶ谷である。古道道行のブログ(「商店街でかくれんぼ」参照)でご紹介した、阿佐ヶ谷南のパールセンターは、やはり古道にある伝統的な商店街だけあって、その辺りの「弁え」を心得ている。無趣味な張りぼて飾りでも、小学生が作ったクマモンだったりすると思わず笑みを誘われるし、未だに金魚掬いがあったり鈴虫を売っていたりするのだから、きちんとしたコミュニティに支えられた「地元のお祭り」としての信念を感じることができる。
もともと中国発祥の七夕は、日本では盂蘭盆会との関連も強く指摘されている。現在のお盆は新暦になって混乱しているが、七夕もそもそもお盆に入る前の四節句のひとつであり、新暦7月7日ではなく、この時期に開催されることが多いのは、旧暦だからである。お盆は、先祖の霊がこの時期現世に戻って生者とともに生活するという風習であるから、いわば失われた過去の人々との繋がりに想いを寄せることである。これに対して、七夕は、牽牛と織女の「未来に対する繋がり」への想いを寄せること、と考えることができる。織女に倣い手芸上達を願う乞巧奠(きこうでん)に始まり、願い事を短冊に記して笹に飾るという行為は、未来志向の願いであるし、年一回しか会うことを許されない牽牛と織女は、やはり未来に続く永遠の愛を願うものでもあるだろう。
そう考えると、七夕とお盆というのは表裏をなしながら、喪失したもの、あるいは今欠落している何かを埋めるものを、時間と空間を超えて求めること、あるいはそれに寄り添うこと、という共通項を持っている。農作業という「厳しい現実」が一段落するこの時期に、一時、空想の世界に身を置いて自由になる、そして新たな活力を生み出していこう、という倭人の知恵であるのかもしれない。
知命を過ぎ残された人生の時間も次第に短くなってくると、これから得る絆よりは失われた絆の方が多くなってくる。それでも、人間は生きている限り未来に成しうる夢を抱き続けることができる。いや、夢を持つことこそが、生きていくことの本質なのだろう。
七夕まつりを見終えて、阿佐ヶ谷駅前に戻りつくと、小さな青森ねぶたと着飾った跳人(はねと)の一群に人の輪ができているのに巡り合った。七夕まつりの一貫として、県人会が小さな人形ねぶたを作って、ねぶた祭りについて紹介しているようだ。津軽は両親の故郷。わが心のふるさとでもある。やはり、社会人になった頃だろうか、青森市内に住む叔父を訪ねたのが丁度ねぶたの頃で、跳人の衣装を借りて(どの家にもあるものらしい)一晩、街を練り歩くねぶた人形について、跳ね回ったことがある。振る舞い酒も手伝って前後不覚になりながらも、叔父の家に歩いて戻った。冬の厳しい津軽では、七夕の流れを引く、このねぶた祭りこそが、日常の労働の発散の場であり、そして若い男女の出会いの場でもあった、といわれている。現在でも、ねぶた祭りから10月10日で生まれる子供が多い、と聞く。
竹と和紙で作られた人形ねぶたから放たれるやさしい光、独特の太い太鼓の音、鉦のおと、そして「ラッセー、ラッセー、ラッセーラー」という独特の掛け声を聴くと、今でも血が騒ぎ身体が跳ねる。こうして時空を超えて流れる津軽人の血が、そしてそれを通じて失われ・生まれゆく絆が、七夕まつりの晩の、むせるような熱気の中へと、一気に立ち昇っていくような気がする。