暑い夏を凌ぐには冷房の効いた場所に退避するだけが能ではない。風鈴の音に耳を傾け、朝露結ぶ朝顔を愛で、すなはち季節に寄り添うことこそ倭人の知恵である。そんな気持ちで訪ねるのが、熱海の定宿「大観荘」である。
横濱から東京へ越して少し足が遠のいていたが、仕事に隙のできた週末に休みをとって久し振りにに東海道線に揺られた。熱海を一望する高台にある伝統的なこの和風旅館は、晩年の横山大観が愛した宿として知られる。大観が定部屋とした座敷の残る木造の旧館が今も海に向かって聳えている。永年薫陶を頂いた社の恩師の定年祝いに、この宿の宿泊券を差上げたが、その旨を聴いた女将は恩師にこの大観の部屋を供した、と後に聞いた。そんな気遣いに溢れた宿なのである。この日も、玄関脇にさりげなく置かれた鉢植えの酸漿が出迎えてくれた。
熱海と言えば、小津安二郎の 『東京物語』 を思い起こす。尾道から東京の子供達を訪ねて上京した老夫婦は、家族持ちの子供達に煙たがられて体よく熱海旅行に追い出されてしまう。熱海の海岸の堤防で海を望む浴衣姿の笠智衆と東山千恵子の後姿が寂しい。安っぽい温泉宿に泊められて、社員旅行の宴会の喧騒に、一睡も得られなかったのである。この疲れがもとで老母は帰郷後に急死することになる。
昔の熱海は、そんな雑駁な温泉街だった。父が勤めていた出版社の社員旅行によく連れ出されたのも、そんな熱海の旅館が多かった。栄枯盛衰に揉まれて、バブルの後、熱海は廃れた。しかし、だからこそ未だに熱海の街を歩くと、五十年前の記憶がふと蘇ることさえある。時代に棄てられたものには哀愁が漂う。『東京物語』 の老夫婦の姿は、今の熱海にこそ似つかわしい。
「大観荘」は喧騒の時を忘れさせてくれる。洋風化した生活に慣らされてしまった身には、ゆったりとした和室の座敷、替えたての畳の藺草の香りを楽しみながら横になり、湯上りの夕涼みにうとうとするのが贅沢な時間だ。お湯がいい。丘下の宿専用の「山王の源泉」から引いた塩気のある透明な湯がふんだんに露天の湯船に溢れている。食事がいい。東京でもそう味わえない一級の腕前の板前が、季節感のある料理を見映えのいい器で楽しませてくれる。そして池に流れる小さな滝の音に満たされた静寂の日本庭園。姿のいい黒松の深緑の向こうに、遠く初島を望む熱海湾を望む。
申し分のない宿である。海外に長く住んだ時も、日本に帰れば必ずこの宿で羽を伸ばしたい、といつも考えていた。いわば、日本人としての基準点のようなものかもしれない。運がよければ、宿の所有する横山大観の掛け軸を虫干しがてら拝覧させてくれる時に巡り合える。流石に「大観の宿」である。
こうして熱海の一夜を満喫した後、例によって真鶴に寄り道していくことにする。駅で降りて真鶴半島を一周歩くのである。海に突き出した岬の先には巨木に覆われた原生林があり、これは「魚づき保安林」として保護されている。この原生林の根元に育った微生物が雨水に流され海で魚の餌となり、すぐれた漁場となる。いわば、真鶴の生活は、ガラス玉の中で循環する生態系のようなものなのだ。だから、熱海で喧騒の時を忘れた後は、真鶴の原生林を歩く。自らの身体の奥底に抑え込まれた生命の源泉が、ここに来ると蘇るような、そんな気がする。
真鶴の漁港では、丁度、「貴船まつり」(7月27、28日開催)の準備が進められている最中だった。これは真鶴の岬の中腹にある貴船神社という海の神様のお祭りで、神輿が舟で海を渡る。350年も続く、国の重要無形文化財である。神輿を載せる舟の供となる屋形船のような「小早船」を、漁師たちが海辺で美しく装飾する風景は、賑やかな祭りの予感を街に漂わせている。祭りの二日間は、この長閑な漁村も凄い人出になるのだろう。
真鶴でのもうひとつの楽しみは「魚座(さかなざ)」での食事。魚市場の二階に建てられた町営の食堂なのだが、安くて新鮮な旨い魚に巡り合える。薄塩の目刺、栄螺のつぼ焼き、釜揚げシラスは定番だが、この季節、子ムツの唐揚げが旬であった。よく冷えた辛口の冷酒がすすむ。
こうして心の洗濯をして東京へと戻る。海際の涼しげな風は、いまだ心に宿っているようだ。