エッセイ


名脇役は語らない―道行拾遺物語②

投稿日時:2013/06/16 15:41


 春のブログ「川面の桜、桜道、露地桜」の最後に登場する、飲屋K こと「加賀屋」は中野駅北口のもつ焼き屋である。店は、東西を走る露地と直角に文字通り鰻の寝床のように細く伸び、露地に面した格子戸の入口が南北にある。桜の日もそうだったが、好天に恵まれた道行の後は、どうしても、この店で一杯引掛けたくなる。開け放たれた格子戸を通る風が実に心地良く、火照った身体を冷ましてくれるからである。
 もう七十に手が届こうかという女将が実に手際よい。今日のお勧めを余りに美味しそうに説明するので、つい頼んでしまう。杯が空きそうになるとすぐ次の一杯を促す。カウンター越しに見える板場もキビキビと動きがいい。客を待たせるでもなくほどよい間で料理が出てくる。
 店員のそんな無駄の無い動きと、相席の八人掛けのテーブルで盛り上がる客たちの楽しそうな笑顔を肴にほろ酔い心地で格子戸の外に目を遣ると、遅い夏の陽は漸く沈みかけ、薄暗い露地には数匹の猫たちが毛繕いしながら大人しく店の様子を伺っている。馴染みの客が餌を与えるのだろうか。あるいはこの店の飼い猫なのかもしれない。そう、ある時は黒猫が一匹、店の三和土で顔を洗っていたりするのだから。
 さて、この加賀屋の看板には「ホッピーの店」とあるのだが、実は、店内に掲げてあるサワー類のメニューを見て、おや、と思う。ホッピー、ウーロンハイ、レモンハイ、ハイサワーまでは分かるが、クエン酸サワー、バイスサワー、ハイ辛とくると少し怪しげな雰囲気が漂い始める。そう、浅草の神谷バーで「電気ブラン」を口にした時に誰もが感じる、あの怪しさ…である。
 とはいえもう二十年以上前だろうか、初めてホッピーを味わった時にも最初は似たような感慨を持ったものだ。何だこれは、味付けに失敗したノンアルコール・ビールだろうか?と。しかし、今では「中」をお代りしながら、白を二杯、黒を二杯平らげてしまうほどのファンである。
 という訳で、早速、クエン酸サワーから未知のサワーに挑戦することにする。クエン酸サワーは、流石に食酢ではないものの脳に響くほど酸っぱい。大汗をかいた時の疲労回復には抜群の効果がありそうだ。バイスサワーは、要するに梅シソサワー、つまり塩気のない「梅酢(バイス?)」である。そして三杯目、ハイ辛。緑色の瓶を焼酎に注ぐと、泡の勢いで非常に強い炭酸であることが分かる。口にした瞬間、これが香りの強いジンジャエールであることに気付く。甘みは極力抑えてあって、しかも後味にツンとくる辛さが生姜の香りを引き立てている。唐辛子エキスが入っているようだ。一気に、このハイ辛が気に入ってしまった。ジンジャエールが「ハイカラ」だった時代にできたと思しき時代錯誤もいい。
 ふと瓶の裏側を見ると「東京飲料合資会社」とあって中野区新井の住所がある。なるほど、略してTouinか。この店から歩いて僅か15分ほどのところである。時を改めて訪ねてみよう。
 ということで、自宅から上高田を突っ切り、新井薬師駅から線路沿いに歩いて東京飲料を訪ねたのは、中野・天沼軍用道路の道行の前哨戦であった。朝方は曇っていたのに、新井に着く頃には夏日が襲っていた。トーインは、駅から線路沿いに所沢方面に向かって15分ほど歩いた住宅街の中にあった。「東京飲料合資会社」という小さな看板があるだけで、玄関やショーケースもない、工場を兼ねた白い4階建てのビルが建っているだけである。土曜で休日のようで、入口のシャッターは降ろされ、人っ子一人いる気配もなく、ビルの外周を犬のようにうろうろと歩き回って、空き瓶の詰まった箱の山やガレージを覗いて、そそくさと退散した。
 これはある程度想像していたことだった。トーインのHPは実に簡素にできていた。数多くの炭酸飲料の商品を製造している会社であることは分かるが、会社沿革もなければ、メールオーダーのページも作成されていない。
 実は、こうした「ご当地飲料メーカー」は、ホッピーの成功以降、次第に脚光を浴び始めているようだ。先にご紹介した、クエン酸、バイスは大田区大森のコダマ飲料で製造されている。他にも、神田食品研究所(「カンダハイボール」)、後藤商店(「ホイス」)などが、トーイン、コダマ飲料と並んでたまたま最近のフリーペーパーに紹介されていた。いずれも発想は、先の電気ブランに近く、洋酒やカクテルの味を焼酎を使って生み出す「割炭酸」だったようだ。
 多少の散財さえ厭わなければ、一流のブランデーやウィスキー、ましてや名だたるバーテンダーの作るカクテルも口にできる現在、洋酒に憧れを抱いていたこの時代の「味付け酒」は、文字通り時代錯誤とはなったものの、ホッピー同様に、妙にこれらに郷愁を誘われるのは何故なのだろう。それは、あたかも演技力では主役を張れない名脇役が、年ふるに従っていい味わいを見せるのに似ている。
 そう、だから、ハイ辛のトーインも「多くを語らない」のだ、きっと。
 因みに、今、わが家の冷蔵庫には、HPに添付されていたFAXの注文書を使ってトーインから配達してもらったハイ辛が1ダース冷えている。口にした時の強い炭酸のインパクトと、ピリッとしたあの辛い後味が、鬱陶しい梅雨空を忘れさせてくれる。


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