<前編より続く>
大正3(1914)年に日本が参戦した第一次世界大戦は、初めて航空機が使われた戦争だと言われている。この結果、大正8(1919)年に、中野の気球隊は飛行隊に再編されることになる。同時に、鉄道が敷設されていたこの軍用道路を100mに拡幅して滑走路とし、「中野飛行場」にしようという陸軍の構想が持ち上がる。その実現に向けて、軍用道路のほぼ中間地点にあたる、現在の馬橋公園と馬橋小学校のある約17,000坪を、大正9(1920)年、陸軍は飛行機格納用地として買い上げた。だが、この計画は頓挫してしまう。既に、滑走路予定地に多くの民家が立ち始めて危険なことと、拡幅が十分に行えず飛行場としては不適当という結論が出たためである。

こうして放置されることになった格納庫用地に、昭和元(1926)年、陸軍通信学校が開校し、そして昭和14(1939)年には、通信学校が転出して、陸軍気象部がこの施設に入ることになった。当時既に、中央気象台(現在の気象庁)による気象観測が始まっていたが、陸軍、海軍でも独自の気象観測を行っており、陸軍気象部は昭和13(1938)年に設立され、4気象連隊があった。

そんな、歴史の記載を思い起こしながら、軍用道路を馬橋公園へと向かう。環状7号線で道路は一旦寸断されるが、その先も、すっと背筋を伸ばしたまま西へと続いている。やがて高円寺北に差し掛かると、あづま通り商店街、庚申通り商店街と、高円寺駅の北に延びるいくつかの商店街を縦断することになる。軍用道路を右に折れて商店街を暫し散策してみると、昔の建物を活用した洒落た雑貨屋、レストラン、喫茶店が並び、古い街並みを活かした商店街の再生が図られている。豆腐屋さんも元気だし、魚屋さんは居酒屋を併設して頑張っている。高円寺らしい趣のある商店街の休日に、集う人々の表情もどこか軽やかだ。

さて、喫茶店で、汗となった水分を補給しながら休息し、改めて馬橋公園へ向けて軍用道路を歩く。やがて緑の杜が見えてくると御影石に「馬橋公園」と彫られた入口の前に出る。公園には広大な池があり、これを覆うように新緑の灌木が林立している。都会とは思えない静寂な日本庭園である。庭園をつっきると石造りの親水公園を水が流れ、近所の子供達が水遊びに興じる、涼しげな風景に巡り合える。ふと、西側の出口に近いところに錆びた鉄骨の構造を持つ屋根の一部が残されているのが、唯一、ここが昔、軍用施設であったことを偲ばせる。
歴史の本を紐解くと、敗戦も近い昭和19(1944)年、この旧陸軍気象部の敷地内に「気象神社」が造営、奉祀された。あの、天の岩戸から天照大神を引き出すために、神楽舞の方策を講じたと言われる「八意思兼命」を祀り、陸軍気象部玄関右横に鎮座し、気象観測員が勤務前に予報的中を祈願した、という。気象予報も戦況も神頼みの時代であった、のかもしれない。

戦後、陸軍気象部は運輸省(現・国土交通省)の気象庁付属の気象研究所へと改組された。敷地は三分の一に縮小され、残りは馬橋小学校用地等に払い下げられた。昭和55(1980)年には、気象研究所は筑波学園都市へと移転し、美しい日本庭園を擁した馬橋公園が残された。

軍用道路を一旦、終点の天沼、日大二中・二高まで突き当たると、踵を返して、高円寺南にある氷川神社の境内に移設された「気象神社」を訪ねてみることにした。深い杜に囲まれた昼尚暗い氷川神社の社殿を見通す石鳥居の右脇に、小さな鳥居がある。日本で唯一と言われる、気象予報の神様だけあって、奉納されている絵馬が「下駄」の形をしているのがユニークだ。絵馬に書かれている祈願は、商売がらみの晴天祈願が多いのだが、気象予報士の合格祈願や、雨男・雨女の返上祈願などというものもあって面白い。

こうして、中野・天沼軍用道路の道行は、平和な時代の平和な願いへ、と辿りついた。私たちは「銃を傘に持ち替えた」と言えるのかもしれない。