エッセイ


銃と傘(前)―中野・天沼軍用道路を行く

投稿日時:2013/06/15 04:35


 先日の「商店街で 『かくれんぼ』 」の冒頭で、開港地・横濱の外国人射撃場であった、600mの直線道路「大和町商店街」をご紹介したが、実は中野にも似たような経緯でできた「一本の道」があることを知った。現在、中野駅北西側の再開発地域として脚光を浴びている旧警察大学校から、阿佐ヶ谷駅の北側、天沼の日大二中・二高に至る 2.5キロの旧陸軍・軍用道路がそれである。この道も、何かと何かを繋ぐ目的で造られたものではない。軍事訓練のために造られた道である。では、それが何故「道」だったのか。
 もともと、中野駅北西部、中野サンプラザ、中野区役所から旧警察大学校までの広大な一帯は「囲町」と名付けられていたが、これは5代将軍綱吉の有名な「生類憐みの令」(1687年)によって、江戸中の野犬がこの場所に集められたことに由来する。その後、この地が再び注目されるようになるのは、明治後半、都心部の人口増加に伴い、広大な敷地を要する軍事施設を郊外に移転する必要に迫られた時だった。
 日清戦争直後の明治30(1897)年、この場所に陸軍鉄道大隊が創設され、早稲田通りの南側に並行して、幅30~50mの鉄道線路敷設と機関車運転訓練の演習場が確保されることになる。以前「東中野縁起②」でもご紹介した通り、中央線の前身、甲武鉄道はこれに先立つ明治22(1889)年、新宿ー立川間を開通させており、更に1894年に新宿ー牛込間、1895年に牛込ー飯田町間が開通している。実はこの都心部の伸長には青山練兵場や三崎町工廠の支援があったといわれ、そもそも、中野を鉄道軍事拠点とするための甲武鉄道の伸長であった、と勘繰れなくもない。
 もうひとつ注目すべきことは、日本が大陸への侵略戦争を始めた早期のこの時点で、植民地経営にとって軍事上鉄道がいかに重要かということに、既に気付いていたことにある。その後、日露戦争、日中戦争へと突入し、南満州鉄道の支配によって植民地経営を実現した萌芽が、ここに見られるのである。中野・天沼軍用道路に敷設された軍事演習用の鉄道は、大陸侵略に向けた第一歩だったのだ。
 そんな予備知識をとりあえず頭に詰め込み、逸る気持ちを抑えながら早稲田通りを中野へと向かう。中央線を中野駅で南北に縦断する中野通りを過ぎると、左手には旧警察大学校の跡地に建てられた東京警察病院の威圧感のある建物が見えてくる。片や道辺には江戸期に建てられたと思しき地蔵・庚申塚があるのは、先日歩いた鎌倉古道と変わらぬ心和む風景である。
 さて、軍用道路は早稲田通りから見てこの警察病院の裏手、今春オープンしたばかりの平成帝京大学の中野キャンパスの西側から始まる。当然のことながら、軍事演習用の鉄道車両は、中野駅付近から分岐した引込線で一旦、旧警察大学校の敷地に入り、そこからこの軍用道路に敷設された鉄道に乗入れたものだろう。このため、道は、一旦中野駅方面から斜めに早稲田通りに近づき、やがて左にカーブして並行に走っている。その昔、鉄道が走っていた軍用道路を、機関車の轟音を脳裏に聴きながら万感の思いで歩き始める。
 不思議なもので、昔は道幅30~50mもあったと記されている軍用道路は、いまや家々の軒先を縫う細い路地といっても過言ではない位に削り取られてしまっているのだが、すっと伸びたその背筋のように続く路肩が、その昔、ここに鉄道があったと感じさせるのは、果たして気のせいばかりではあるまい。
 鉄道大隊は、明治35(1902)年には、通信教導隊が併設されたことを機に、鉄道隊と改称される。この辺りの発想の転換が面白い。鉄道というハードの軍事線が通信というソフトの軍事線と抱き合わせで想起されているからである。明治37(1904)年、日本は日露戦争に突入する。そして軍部の視野は「陸から空へ」と広がりはじめる。
 詳細は未調査だが、中国大陸で華々しい砲弾攻撃の応酬となった日露戦争において、陸軍は気球を上げて空中からその砲弾の命中状況を観察していたらしい。この結果、空中を軍事攻撃の新たな拠点としうるのではないか、という着想から、鉄道隊に今度は気球隊が併設されたのは明治40(1907)年のことである。鉄道隊はその翌年から転営されることになり、中野には通信教導隊が改称した通信隊と気球隊が残ることになる。この改組が、今歩いているこの軍用道路に、ひとつの転機を与えることになるのだ。  <後編に続く>


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