犬も歩けば棒に当る。人も歩けば物語に巡り合う。道行の「?」とか「!」は、歩いてみなければ分からない楽しみである。自家用車の車窓の動画やサイクリングの軽快な速度感は、風景に「塗り込められた」大切なものを見失わせてしまう。現代人は余りに時に追われ過ぎている。そして、スマホの情報の氾濫に真実を見失ってはいないか。スマホを捨てよ、街に出よう、である。
という訳で、道行はそれ自体がひとつのテーマであると考えているが、実は様々な「脇道」がある。道辺の花にふと我を忘るるごとく、そんな道辺の物語をいくつか、ご紹介していきたい。
今回、桃園川暗渠の道行で気付いたことは、世に「暗渠マニア」が存外多いことである。タモリ辺りがその先駆であるようだが、古地図を手に街を歩き暗渠化した河川を現代の地図に重ねてみる、という実に想像力豊かな遊びを楽しんでいる。ジョギングやウォーキングが嵩じて、という方も多いようだが、やはり都会に人知れず潜む暗渠には、古い商店街と同じような「奥行」があるようだ。
そして実は、道行に関してネットでいろいろなことを調べている内に、実はもうひとつ「あるもの」を探求している一群の存在に気が付いた。それは「三好弥」という洋食屋の「ネットワーク」に関してである。
桃園川暗渠を東中野から西へ向かい、今はその面影は薄いが嘗ては区役所を始め行政の中心街であった「中野五叉路」に出る辺りの「川辺」に「三好弥」というレストランがある、いや「あった」。最後にその姿を見たのは最初の桃園川暗渠の道行であったから、かれこれ一ヶ月程前のことである。
実はこの洋食屋の存在を知ったのは、中野区在住の料理研究家がTVで中野界隈の「安くて旨い店」の幾つかを紹介していたのを見たからだったが、毎年「中野区商店街連合会」が主催している「中野の逸品グランプリ」(住民の投票で決める旨いものランキング)で、確かこの店のオムライスかトンカツだかが上位に入っていたのにも気づいて、かねて瞠目していたのだ。
道行でこの「三好弥」を見つけて一週間後、さて噂のオムライスを昼飯にと再訪してみて驚いた。古い二階建の店舗には足場が組まれ、まさに解体工事を始めるところだったのだ。店舗には閉店の挨拶もなければ移転の知らせもない。老夫婦が細々とやっているような店なので、とうとう商売も息絶えてしまったのかもしれない、と少なからずショックを受けた。
しかし、である。その後、神田川・善福寺川の道行で中野新橋を歩いていた際に、やはり「三好弥」の看板を目にした。休日の昼間だったせいか店は閉まっていたが、営業はしている様子だった。はて、「三好弥」というのはそれほどあちらこちらにあるものだろうか、とネットを調べて驚いた。
大正8(1919)年、愛知県高浜市出身の、長谷川好彌が小石川柳町に創業したのを始とする。三河出身の長谷川が故郷と自らの名を冠して「三好弥」の屋号とした。最初は「みそかつ」を看板メニューとしたが、洋食化の波に乗って暖簾分けによって店舗を拡大し、全盛期は130店舗を超えたという。現在でも数十店舗が残っているようだ。総じて戦前から残る古い店が多いように見受けられる。例えば千束の店は昭和10(1935)年開業。ブログの筆者は店に飾られた開業当時の写真をもとにその歴史を店主に尋ねている。
そんな「三好弥」を訪ね回って食べ較べをしているファンもいる。そんなブログの一つに、上板橋店に掲げてあった「三好弥系統図」の写真が掲載されている。暖簾分けされた店主の名前が記され、創業者である長谷川好彌のご子息や、本店で修行を積んだ弟子やその末裔達が「三好弥」の暖簾を継いでいることが分かる。そして、系統図には、中野南口店や、中野新橋店の名も見える。
こうした洋食屋の暖簾分けの系統は戦前では余り珍しいことではなかったようだ。神田にある「キッチン南海」なども実は暖簾分けでいくつかの店舗が全国に分散している。しかし、これほど系統図が整備され、また「三好弥会」なる同門会を作って未だに横の連携を保っている老舗も珍しいのではなかろうか。現代のフランチャイズにはない、歴史の重みと目先の利害を超えた暖簾の深みを感じる。
ということで、未だに「三好弥」の洋食に馴染みはないが、ブログの写真をもとに、何故かこの系統図の模写に取り組み始めている。それをもとに取材ができるならば、大正8年に始まる一大洋食チェーン店の隠された物語が見えてくるかもしれない。
そんな物語との出会いに胸躍らせるのも、道行の楽しみのひとつであるに相違ない。そうして、貴方の街の「三好弥」にも、一度訪ねてみてほしい。
エッセイ
ある系統図―道行拾遺物語①
投稿日時:2013/06/07 05:40