エッセイ


商店街で「かくれんぼ」(後)―大宮八幡宮から古道を北へ行く

投稿日時:2013/06/01 10:14


<前編より続く>
 元町の街づくりのひとつのアイディアの着想を得たのが、社会学者・広井良典氏の 『コミュニティを問い直す』 という一冊の本との出会いだった。近代化の過程で伝統的共同体から解き放たれた日本人は、家族主義的企業経営と核家族化を経て、今や紐帯を失った独善的な個人の集合体と化してしまった。新しいコミュニティのあり方を考えた場合に一番の可能性を持っているのが、商店街と学校である。元町の商店街の活動を通じて取り組んだ一つの試みは、商店街の主催するフードフェアに、元街小学校の児童たちの作った「縁台」を置くことだった。
 ある日、浅草を散策していて、「縁台アーチスト」の荒野真司氏と巡り合った。彼は間伐材を利用して子供達でも組立てられる縁台のキットを使って、子供達に手造りの面白さを知ってもらい、更にその縁台を街に配して、誰でも気軽に会話ができる場を提供することで、コミュニティの再生を目論んでいた。元町の商店街が年一回開催するフードフェアの前日祭に、小学生に44個の縁台を作ってもらい、これを飲食スペースとして来場者に活用してもらう、という企画だった。商店街の個店にスポンサーとして資材費を出してもらい、使用後の縁台は子供達が引き取るか、商店の店先で活用してもらった。まさに商店街と学校と店主と親御さんたちを巻き込んだ心温まるイベントとなった。
 前篇に記した松ノ木商店街の試みも、同じ意義を持つものだろう。住民に近接してはじめてローカルの商店街の生き残る道も拓ける。そして住民は商店街を新たな出会いの場、として求めている。
 さて、青梅街道を更に北上すると古道は商店街と重なる。青梅街道の入口はまず「すずらん通り商店街」である。阿佐ヶ谷駅前に通じるパールセンターまでのわずか数百メートルのこじんまりとした商店街だが、古い食堂や乾物屋、肉屋や豆腐屋などが並ぶ極めて庶民的な雰囲気に心癒される。どれほど大量廉価販売の大型店ができうようと、住民と強い紐帯で結ばれた商店街は必ず生き残ることができるのだ。
 店先を覗きこみながらゆっくりとうねった商店街を抜けると、目の前に大きなアーケードを擁したパールセンターが姿を現す。阿佐ヶ谷駅前から延びるこの商店街に一度でも足を踏み入れたことのある人なら必ず気づく筈だが、この商店街はくねくねと蛇行を繰り返している。背の高いアーケードの天井を見上げてみると、よくもまあこれほど複雑な形にアーケードを作ったものだ、と感心するほどである。何故、パールセンターがこれほど蛇行しているかというと、実は古道の沿道がそのままに商店街として発展したためである。
 その証拠に、商店街のほぼ中央、「く」の字に折れ曲った所にある「稲毛屋」という老舗の蒲焼屋の対面に、先ほど松ノ木で見たのと同様の祠があってやはり庚申(金剛像)とお地蔵さんが祀られている。こちらは、先のものに遅れること6年、元禄4(1691)年建立と説明が添えられてある。区画整備でまっすぐと引延ばされて再開発される商店街が多い中、パールセンターは昔の古道の面影をその人通り共々そのままに残している商店街なのである。曲がりくねった商店街は確かに使い勝手は悪いかもしれないが、道の陰影は道の表情となって、通る者を暖かく包み込んでくれるようだ。まるで子供の頃の「かくれんぼ」の隠れ場所が、妙に子供のこころを和ませるように。
 そして事実、この商店街には古くから商売を続けていると思しき店舗が数多く見られる。お茶・海苔屋、乾物屋、米屋、酒屋、魚屋、肉屋、練物屋。勿論、八百屋がスーパーになったり、洋品店が雑貨屋になったりしているが、旧い屋号がそのまま生きている。おそらくは、数百年の齢を重ねてきたことだろう。
 暫く歩を進めると、突然、アーケードの中に子供達の歓声が反響しはじめた。ふと十字路で左の声の方に目を遣るとその向こうに阿佐ヶ谷中学校の校庭が見える。運動会のリレーに歓声を上げている子供達の姿が見える。校庭脇のネットには、それこそ買い物客達が大勢へばりついて、中学生と一緒になって、応援している。まさに、商店街と学校が近接しながら、新しいコミュニティが形成されるつつある姿を垣間見たような気がした。
 パールセンターを抜けるとすぐ目の前には阿佐ヶ谷駅の高架が飛び込んでくる。その高架を渡ると古道は大きく右手に入り込み、中杉通りを迂回して阿佐ヶ谷新明宮の正面につながる参道になる。鳥居の前を左に折れ中杉街道に戻ると、欅の大木の街路をつっきって、古道は別の商店街に入りこむ。阿佐ヶ谷北共栄会の看板が見えるが更に北上すると、松山通り商店街となる。
 こちらは派手なアーケードもなく、広い古道際の落ち着いた古い商店街である。やはり、あるある古い店並み。不思議なことに寿司屋と魚屋が多い。内陸なのに阿佐ヶ谷には魚好きが多いのだろうか。そして、木造の古い店構えの軒先には、こんな幟が。
  「海のかおり・さわやか風味 生つきところてん みつ豆用寒天」
 これは既に、詩、である。この一言で、夏の涼を感じる。やがて更に商店街を北へ上ると、いよいよ見慣れた「八幡煎餅」の看板に辿りつく。そう、桃園川暗渠の道行で通った天沼の弁天池に至る八幡神社の参道の入り口である。実はあの時、汗をかきかき道に迷いながら飛び込んだ、ジェラテリア「SINCERITA」(シンチェリータ)のジェラートの味が忘れられず、再訪することにしたのだ。これで、東中野を頂点として、北西に延びる桃園川緑道と、南西へと延びる神田川・善福寺川を長辺とする二等辺三角形の、底辺となる鎌倉古道を踏破したことになる。ひとつの探るべきテーマを完遂したように、自然な香りと甘みのジェラートを店先の椅子に腰かけて堪能した。
 陽が西に傾きかける頃、中杉通りを折り返して、阿佐ヶ谷駅界隈の飲み屋街を散策する。駅の南側、これも暗渠と思しき「川端通り」に懐かしい赤提灯の露地がある。だが、その暖簾を潜らず、今日は川端通り外れにみつけた「BIRDLAND」でちょっと洒脱な焼き鳥を食べよう。名の知れた店であるが、敷居を跨ぐのは初めてであった。鶏レバーのパテにボルドーのワインの取り合わせも、またおつな旅仕舞いの一つではある。
 最後にネタ本をご紹介しておこう。一連の歩き旅は『中央線がなかったら見えてくる東京の古層』(陣内秀信・三浦展編著、NTT出版)を参考にした。近代に中央線が敷設され、近世に甲州街道、青梅街道が整備される以前、武蔵野には寺社間に張り巡らされた古道や河川交通の要所があって、これを歩くことにより、中央線や近世街道では見えない古い街並みが浮かび上ってくる、という面白い視点で書かれた本である。陣内氏は同じ手法でイタリアの都市研究も行っているが、このフィールドワークは「都市歴史社会学」の白眉ではないか、と考えている。機会があれば、更に、古道や河川の網目に、足を延ばしてみたいものだ。


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