エッセイ


商店街で「かくれんぼ」(前)―大宮八幡宮から古道を北へ行く

投稿日時:2013/06/01 08:55


 沢木耕太郎が混血のボクサー・カシアス内藤の再起を描いた 『一瞬の夏』 は、根岸線・山手駅を降りて北東に向けて本牧通りへと一直線に延びる商店街を歩いていく印象的なシーンに始まる。商店街の半ばに、内藤が再起をかけて細々と暮らす安アパートがあるのだ。実はこの「大和町商店街」は幕末の開国にあたり欧米列強の求めに応じて開設された、外国人射撃場だった。600mに亘る直線道路はその名残である。入口に立って遠近法の先にある消失点を探そうにも、余程の遠視でない限りそこに置かれていた筈の的を見ることはできない。
 確かに、横濱には直線の商店街が多い。街づくりのお手伝いをさせて頂いた元町でさえ山手の山麓にありながら海に向かってほぼ直線である。これは街の形成自体が新しいことを意味している。一方、武蔵野に秘かに眠る古道は谷を縫い、くねくねと蛇行している。そんな古道のひとつ、前回ご紹介した大宮八幡宮から鷺宮八幡神社に至る「鎌倉古道」(と地元の人は呼んでいる)を北上してみることにした。
 よく晴れた夏日の昼前、前週に鎮座950年祭の薪能で賑わっていた大宮八幡宮にバスで乗り着けてみると、正面の鳥居が大きな板で覆ってある。張り紙を読むと神殿から鳥居に向かう参道に馬を走らせ流鏑馬を行うらしい。脇道を通って東の参道から神殿に入ると、丁度白馬が二頭牽かれて厩舎に戻るところだった。神々しい白馬が神社に相応しく鬣を風に靡かせて涼しげに歩く様は、見る者に暫し時の経つのを忘れさせる。山門から本殿に入ろうとすると、白無垢に身を包んだお嫁さんが山門を出てくるのに遭遇した。神前結婚式が行われているのだ。身辺が俄かに慌ただしくなったと思うと、厩舎に下がった筈の二頭の白馬が新郎・新婦の前に引き出された。式場が用意したサプライズであったようだ。新婦は本当に驚いた様子で目を白黒させている。神はこうして奇跡を授けてくれる、のかもしれない。
 清廉な気持ちで大宮八幡宮の丘を降りて和田堀を見に行く。ここは善福寺川の蛇行する盆地にあたり、おそらくはその伏流水が大きな池になったものだろう。中州の樹々が池面にしなだれる様は、まるで熱帯の河のように見える。肥沃な川の水が深い繁みをもたらす。大きな望遠レンズを備えた一眼レフを三脚に乗せその繁みを狙う数名のカメラマンたち。公園の立て看板を見ると翡翠(カワセミ)が棲むらしい。脳髄に鮮烈な印象を与える、あの翡翠の一瞬の輝く美しさを目にするためには一日待つ労も惜しくはない、と思う。だが道行にそれほどの僥倖は重ならない。
 和田堀をぐるりと巡るとその外れに武蔵野園という古びた釣堀が見えてくる。入口を覗くと、半日大人1,900円、子供1,500円とある。眩いばかりの初夏の日に釣り糸を垂れてのんびりするのも楽しそうだ。それにしても「半日」という大雑把さがいい。2時間では、大人1,200円である。釣堀を眺めるあばら家のような食堂もあって、家族づれ(とは言っても父・息子が多い訳だが)で賑わっている。ラーメンとかカレーとか海の家のような雰囲気も捨てがたい。
 さて和田堀から少し東に歩を進めると鎌倉古道に出る。道端の小さな祠に庚申塔と子育て地蔵が祀られている。地元の郷土史家の簡単な解説が添えられてあり、5代将軍綱吉の貞享2(1685)年の建立という。当時青梅街道は既に整備されていたから、そこから南に下って大宮八幡宮に向かう参道として賑わったに違いない。ただ、おそらくこの古道は大宮八幡宮の建立された鎌倉時代から存在していたものだろう。地元の人が鎌倉古道と呼ぶ理もここにある。
 お地蔵さんの前の古道を北上するとやがて細やかな「松ノ木商店街」になる。商店街とは言っても古い鰻屋や電気店、魚屋などが疎らに並ぶこじんまりしたものだが、ふと、道端に並ぶサインを見上げると、小学三年生が描いた(と書いてある)色とりどりのバナーが並んでいる。一枚一枚手描きで描かれたバナーは、おそらくは最寄の松ノ木小学校の児童の手になるものだろう。統一された技法で、しかし一枚一枚、子供達の選んだ題材と色彩で独創的に描かれており、商店街と小学校というひとつのコミュニティの紐帯を感じさせる微笑ましいサインであった。嘗て元町でも同じことをしようとしたが、やはり一歩間違えば泥臭くなってしまうこの企画は、ついに日の目を見ることはなかった。なかなかできそうで、できないこと、なのである。
 さて、松ノ木商店街を道半ばで左に折れ、古道は迂回して青梅街道から南西に分岐した五日市街道をつっきる。古道は細くなり、杉並区梅里という地名を目にする頃には瀟洒なお屋敷が立ち並ぶようになる。こうして古道は南東から斜めに突き刺さるように、青梅街道へとつながる。<後編に続く>


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