<前篇より続く>
先日、NHKの「BS歴史館」を観ていたら、歴史学者の磯田道史が渡辺真理の司会で実に歯切れのいいコメントをしていた。彼は映画にもなった『武士の家計簿』を書いた人である。ウィキペディを調べたら、時流に抗して正論を吐き帝国議会を追われた政治家斎藤隆夫の色紙を、学生時代に露店の古道具屋で偶々見つけ「百年青史の上を看ることを請う」と記されたのを見て、そこに埋もれた歴史を正しく伝うべき使命を悟った、という逸話が記されている。市井の人々、あるいは「敗者」から見た歴史を調べ、綴ることの意義はここにある。
さて、善福寺川を和田ポンプから更に遡ると、やがて川が右手に大きく迂回し始める頃、川辺の風景は子供の頃の野辺の川の記憶を蘇らせる。河岸は垂直から逆ハの字型へと変わり川面への親近感が増してくる。蛇行する水路を増水による浸食から守るためか、川幅を広くとるために川辺に親水公園が作られ草木の緑も増えてきた。地図を見ると右手の杜に熊野神社があるので、ふと区の施設の庭のような草道を抜けると、その脇に一体の古びたブロンズ胸像が建っている。「今井政吉先生之像」とある。
川沿いの遊歩道に抽象的な力強い絵具の線で描かれた板絵がいくつか飾られていた。中学部〇年生制作とあるが、画は全く具象の像を結ばない。やがて川の向こう側の学校で大勢の子供達の屈託のない笑い声が聞こえてきた。「養護学校だな」と気が付いた。帰宅後調べて分かったことは、今井政吉氏の父今井恒郎氏は明治・大正期の教育者であり、明治40年「日本済美学校」(後の済美学園)を設立し、全寮制少数教育など先進的な教育を実践していた。昭和25年、その志を引き継いだ子息の政吉氏は教育施設として活用することを条件に、その全てを杉並区に寄付する。現在、区立養護学校と区立小学校、そして教員の研修施設にこの「済美(せいび)」の名が冠されている。
済美とは、「春秋左氏伝」の「世々済其美不隕其名」(世々その美を済しその名をおとすべからず)より採られた。今井恒郎、政吉父子についてネットで調べてもこれ位のことしか分からないが、私財を擲って教育という公の利を貫くその理念は、並大抵のものではなかっただろうと想像できる。歴史の表舞台にはその名を留めているとはいえぬ今井父子に思いを馳せながら、冒頭の磯田道史の逸話をふと思い起こしたのだ。
さて長旅もやや寄り道に過ぎた。ここが杉並かと思われるような緑の中を善福寺川はせせらぎを宿しつつ流れていく。川辺には新緑に覆われた空き地に木立の心地良い木陰ができていて、お下げ頭の女の子たちがその木陰でシロツメクサの髪飾りを編んでいる。西へ西へと向かう善福寺川の川面に、早くも西に傾きかけた夏日が眩しい。やがて、川の蛇行の入口にあたる和田堀公園の大きな野球場が見えてくる。だが、しかし何か変だ。その広大な野球場ー子供の野球ならば優に二面はとれる広さーは10mばかり掘り下げられた掘り底にある。やがて川がこの野球場沿いに右手に曲がるとそこに「和田堀第六号調節池」と看板が立っている。この野球場も、増水で水嵩が増した時の調整池になっているのだ。
川はやがて両側を武蔵野の大木で覆われるようになり、渓谷にでも紛れこんだような錯覚に陥る。そしてしばらく進むと吊り橋のような細い橋を渡って、小高い丘の杜の道を登っていくと、そこが今日の目的地、大宮八幡宮である。大宮八幡宮は、1063年、前九年の役で奥州に向かう源頼義が、戦勝を祈願した京都・石清水八幡宮を勧進したとあるから、鎌倉の鶴岡八幡宮とほぼ同じ時期・同じ経緯で創建されたことになる。鶴岡八幡宮ほどの知名度はないものの、その荘厳な社殿は歴史の重みを感じさせる。道行で灼熱の陽に火照った身体を涼めるように、しばしその森閑とした杜の中の境内に佇んだ。木陰にそよぐ風が実に心地良い。
折しも、境内は鎮座950年式典の只中であり、その夕べも神殿に薪能が奉納されるという準備の最中であった。しかし、歩き疲れた身体には風流の余裕もない。しばし汗の引くのを待つと、鳥居の前を通るバスに飛び乗り、今日もまた癒しの一杯を求めて、高円寺のガード下の赤提灯へと心は走るのであった。バスが杜を抜け、善福寺川の橋を渡る時、その川面に迫った夕暮れに、歴史に埋もれた今井父子の面影を辿りながら。
障子あけて置く 海も暮れきる (放哉)
エッセイ
川も暮れきる(後)―善福寺川から大宮八幡宮へ
投稿日時:2013/05/30 04:44