子供の頃の記憶にあるのは、氾濫する神田川である。夏場、大雨が降るとやや下流の小滝橋、落合辺りが浸水した、というニュースをよく耳にした。日常の傍らにあれほど穏やかな表情を見せている川が何故だろうと、不思議に思ったものだ。だから、台風の接近したある大雨の夜、こっそり家を抜け出して東に5分ほど下った神田川を見に行った。いつもは橋の欄干から下を覗き込まなければ川面が見えないほどの川嵩が、今にも橋桁を飲み込まんばかりの黒いうねりとなって、猛り狂っているのが遠目にも見える。急に背筋が寒くなって慌てて逃げ帰ったことを覚えている。
その後、神田川水系は増水時の浸水を防ぐために、増幅・護岸工事、放水路・貯水池の建設などの対策が取られることになる。先に触れた、桃園川の暗渠化もその一つである。都市化に伴い雨を吸収する土壌面積が減ったことが最大の原因ではあるものの、もともと武蔵野の台地を蛇行する神田川水系は暴れ川で、氾濫の度に流路を変えた。そこに偶々、増殖した人間たちが川辺にまで棲みつくようになった、というのが正しい。いわば、人智で自然を制御しようという発想に立ったといっていい。
さて、桃園川緑道、堀之内古道に続き、今回はその神田川を上流へと辿り、支流のひとつ善福寺川を遡って大宮八幡宮まで歩いてみることにした。先日の堀之内古道の道行で、道を逸れてふと目にした中野新橋を探訪してみたかったこともある。

東中野から淀橋に至る見慣れた川沿いの桜は、既に夏日を受けて蒼々と葉を繁らせている。だが、淀橋を過ぎると河岸は緑を失い高層ビルに囲まれる乾いた「都会の川」に変貌する。暫くは殺風景な風景が続くが、そこで安堵を与えてくれるのが「中野新橋」だ。赤い橋桁は2011年9月に架け替えられたばかりだが、古い写真と見比べても意匠の変化はない。昭和初期以降、花柳界として栄えた街のシンボルとしての存在感を保っている。
川上りを小休止し、古い街並みを求めて散策を考えたが、余りの暑さに清涼飲料を求めコンビニに飛び込む。硝子張りのクーラーを見回していると、ふと目に止まったのが「中野新橋サイダー」である。もしや、と思って手に取って瓶の裏の製造者を見ると、案の定「東京飲料合資会社(トーイン)」であった。先日、桜の日録でご紹介した「中野のホッピー」ともいえる「ハイ辛」(ジンジャー系の炭酸水)を製造している新井薬師の地場メーカーである。現在では赤提灯といえばホッピーだが、このメーカーもラムネ製造に始まり様々な種類の「割炭酸」を製造していて、中野北口の古い暖簾では根強い人気を保っている。今度一度本社を訪ねてみたい、と思っている。

さて、暫し涼をとって、橋の北東側の旧花柳界隈(その外れに貴乃花部屋がある)をしばらく散策したが、今や殆ど往時の面影はない。古い建物は全て瀟洒なマンションへと建替えられている。寧ろ橋の南側の古い商店が昭和レトロの雰囲気を疎らに残している。
さて、神田川に戻ろう。この辺りから富士見橋辺りに掛けては河岸の遊歩道はなく、現在整備中である(中野新橋までも最近整備が終わったばかり)。川への親近感が薄いのも、水害に悩まされてきた過去の記憶のせいだろう。事実、この近辺では昔の神田川はもっと蛇行していた。寧ろ川に並行する一本北側の路地に昔の河岸の雰囲気を感じる。
その路地はだらだらと昇りはじめ、やがて左手の視界に中野富士見町が開ける。川の向こうは佼成病院や富士高校のある緑の丘である。ここから再び川沿いの道を歩く。暫く行くと、川北は既に杉並区和田、川南には、丸の内線が支線を持つに至った最大の理由、東京メトロの巨大な中野車両基地が見える。銀座線は当初、上野、渋谷に、丸ノ内線ができてからは小石川に車両基地を持ったが、都心の過密化の結果中野に集約された。日本最古の銀座線、これに次ぐ丸ノ内線はガラパゴス化した第三軌条方式で他線の乗入れがないため、最終的な車両の転削はここで行っている。

左手に広大な車両基地を見ながら歩くと、やがて善福寺川との分水嶺に行きつく。右手の善福寺川沿いに折れてしばらく上ると、右手に円形の壁面を持つ「和田ポンプ施設」が見えてくる。これこそ、神田川水系の浸水を抜本的に解決するために2007年に建設された巨大プロジェクトだった。
都市の川の増水は大量の降雨によって一時的に急速に発生するが、逆にその持続時間はそれほど長いものではない。このため、急激な増水を一時的に貯蓄するための巨大な地下貯水管を作りここに緊急避難させればいいのだ。このために中野弥生町から杉並和田に至る神田川流域(12万㎥)と環状7号線の杉並区域内(54万㎥)に各々8.5m、12.5mの巨大な貯水管を埋設した。川の水位が下がってから貯水管の水を汲み上げて再び川に放流する、これが「和田ポンプ」なのである。いやはや、人智で自然に立ち向うとは、骨の折れるものである、とつくづく感じる。<後編に続く>