「優しいサヨク」であった筈の父は、晩年敬虔な浄土宗門徒となった。(そう言えば、島田雅彦は父の学部の後輩にあたる…)これには、早稲田夏目坂上・来迎寺の林純教住職との出会いが大きな役割を果たしている。津軽を捨て故郷喪失者となった父は、東京に浄土宗の墓所を探し求めた結果、巡り遭った林住職に意気投合してしまったのだ。
ご住職は佛教大学でチベット語を修め「般舟三昧経」という経典を翻訳・出版された。大乗仏教の経典といえば、国禁を犯して唐からインドへと渡った玄奘三蔵(西遊記のいわゆる「三蔵法師」)が有名だが、伝聞を超えて、仏陀の教えに少しでも近接するために、文字通り身を賭して修養を果たした。ご住職もこれに倣いこつこつとチベット語の経典を翻訳された努力の高僧である。それが、誠実と勤勉を旨とする典型的な津軽人の父の琴線に触れてしまったようだ。

父は来迎寺に墓所を定めると、ご住職が主宰される月二回の早朝勉強会に通うようになった。やがて世話好きが嵩じて檀家代表となり、檀家の旅行会の幹事などもしていたようだ。やがて着実に訪れる死に向けて、自らのこころの平穏を求めるための修養であった、のかもしれない。
さて、桃園川暗渠の緑道歩行に味をしめ、同じネタ本に紹介されていた妙法寺参詣道という古道を歩いてみることにした。新宿追分(とは甲州街道からの分岐を意味する)より始まる青梅街道を西に、淀橋を過ぎた辺りから左手(南側)に分かれ鍋屋横丁を突っ切って杉並区堀之内の日蓮宗妙法寺に至る約3キロの道程である。またの名を堀之内道というこの古道は、元禄の頃には多くの参詣客で賑わったという。徒歩旅行が常であった江戸庶民にとってはこれほどの道程は大した苦行でもあるまいが、やはり参詣の道行はご利益のためのひとつの修行であったことは事実に相違ない。

自宅から中野坂上まで出て、青梅街道を一旦新宿方面に戻る。淀橋の手前左手に「中本一稲荷」の朱の鳥居が見えると、道を挟んだ正面に参詣道の起点がある。モノの本には鍋屋横丁を起点とするものも多いが、より新宿に近い青梅街道に分岐点としての起点がある、というのが正しいようだ。因みに鍋屋横丁というのは、青梅街道に市電が走っていた頃、中野で最も賑やかな商店街であった。青梅街道にぶつかる交差点にあった菓子屋がその名の由来であったが、映画館まである繁華街だったようだ。未だにその面影は残っている。
古道を辿る道行は暗渠歩きほど簡単にはいかない。古道は分断され知らぬ間に違う道を歩いていることになる。事実、古民家のある道を辿るうちにふと、中野新橋の「貴乃花部屋」に遭遇してしまう。地図をみるとこれは古道よりかなり南にあたる。慌てて北上してみると古道は青梅街道の僅か南側をほぼ並行していることに気付く。参詣道の起点を鍋屋横丁とする説も頷ける。淀橋からこの間、青梅街道からわざわざこの脇道を歩くまでもないからである。おそらくは、参詣道が青梅街道から離れ、おおきく南へと分岐するこの辺りから妙法寺に掛けて、参詣客も多く通り、従って多くの店が並んでいたことだろう。そして、鍋屋横丁から先は、道筋も確かにしっかりと辿れるようになる。

江戸期・町医者の手になる随筆『塵塚談』には、厄除け祖師として庶民の信仰を集めた「堀之内祖師」参道の賑わいの様子が描かれており、また広重の浮世絵「堀之内千部詣」にもビジュアルとして記録されている。今では古民家や瀟洒な佇まいの鰻屋等の飲食店にその面影を見るばかりだが、杉並区和田には、参詣道沿いにある「和田帝釈天」を中心に古い商店街が残り、旧参詣道としての雰囲気が今に生きている。
さて、その和田帝釈天通りを過ぎると、行く手に妙法寺の杜が見えてくる。この辺りになると「妙法寺参詣土産」の看板を掲げた饅頭屋があったりして、一気に門前町の気配が漂ってくる。参詣道は門前の前を通り、やがて荘厳な山門が見えてくる。時は折しも「法華千部会」、全国から本山に多くの僧が集い、門徒とともに法華経一部を一千回読誦する法会が行われていた。先の広重の参詣図は、一年で最も賑やかなその法会に向かう庶民の群を描いた浮世絵である。

武蔵野の高木が新緑を湛える妙法寺の広大な境内は、夏日の炎天下を歩いてきた身には心地良い木陰と涼風を恵んでくれる。山門を抜けた正面にある荘厳な講堂には、まさに大勢の法華僧と門徒が集い、読経の最中であった。太いバリトンの読経の声は渦となって、開け放たれた講堂から地響きのように緑の杜に木霊し、言葉は知れずとも不思議と境内を散策する者の心を鎮める。本堂では敬虔な門徒が独り掌を合わせ、やはり飽くことなく読経を続けている。これが、宗教のもつ厳粛さの真髄である。
こうして信心の薄い俗物も、参道を歩き修行を積んで、寺社を拝んで厳粛な気持ちで帰路につく。まさに江戸庶民の心性は生きている。だから道行は止められない。いや、熱中症気味の朦朧とした意識は、駅前の立ち飲みの一杯の麦酒へと「先走り」しているためかもしれない。