エッセイ


「川」からの贈りもの

投稿日時:2013/05/06 06:05


 光溢れる立夏の昼下り、桃園川緑道を歩く。
 桃園川は、杉並・天沼の弁天池を水源に東流し中野・末広橋で神田川に合流するほぼ6キロに亘る小河川だった。神田川同様、近隣の宅地化に伴う護岸化により大雨の際の氾濫を繰り返し、昭和42年暗渠化される。横濱・戸塚の山奥から塔の山小学校に転校してくる僅か2年前のことである。小学校正門前の暗渠は自動車がシャットアウトされ、子供達にとっては恰好の遊び場だったのを記憶している。
 つい最近、ある本を読んでいて、この桃園川暗渠が緑道公園として整備され、その源流の天沼まで辿れることを知り、思い立って歩いてみることにした。
 見慣れた小学校脇の宮下交差点を起点に西に向かって歩を進める。今では暗渠の両側に膝丈程の煉瓦づくりの花壇が誂えられて、立夏の眩い光のもとに季節の花々が見事に咲き誇っている。やがて実践学園、堀越学園が見える頃には背の高いビルも疎らになって、緑道は両側の民家の軒先を掠めるようになる。
 車やバイクは乗り入れできないため、晴れた日の散歩やジョギングにはうってつけのようだ。花壇に植えられた草木の新緑の向こうから、それぞれの生活の音が聞こえてきて、家々の軒先がこの緑道づたいに繋がっている錯覚を覚える。事実、花壇の間に間に誂えられたベンチには灌木の木陰を利用して、近所の高齢者たちが腰かけて長閑な会話を楽しんでいる。古民家を改造した喫茶店は窓を開け放って風を通し、中からはウォーキング仲間と思しき客たちの声が聞こえてくる。犬を散歩する人との会話も何故かこの道では交わしやすい。
 桃園川の暗渠という生活道がひとつのコミュニティを形成しているのだ、と思った。
 やがて道は中野五叉路を抜け、一旦南に大きく迂回し、やがて杉並区へと入る。緑道は公園として各区で整備・管理している。杉並では、中野よりも小さな石積みの花壇の仕様となるため、緑道の雰囲気は大きく変化する。それでもそれぞれの花壇は地元ボランティアで管理されている旨の立札があって、草木は美しい花々を咲かせている。
 しかしもっと大きな相違は、杉並に入ると緑道自体が細くなることと、もともと杉並の街中に細い路地が多く見られることからその存在感が希薄になることかもしれない。周囲の街の色彩に溶け込んでしまうのだ。…それでも緑道は続く。
 東西へと延びる緑道には中野通りや環七といった幹線ばかりではなく、いくつかの商店街も交差する。高円寺の未だ活気を絶やさぬ商店街に眼を奪われながらも、西へと進む。
 緑道は、高円寺・阿佐ヶ谷間で中央線の高架を南から北に超える辺りから、再びその相貌を変えていく。緑道として整備されていた暗渠は、上流に近づくにつれ一般道と区別がつかなくなるのだ。時に幹線道路に寸断され、また一般道に呑込まれながらも辛うじて川の形跡を辿っていくことができる。
 阿佐ヶ谷駅東側を通る中杉街道と交差する辺りでもこうして一旦緑道を見失うが、旧街道に当る松山通りの商店街の古い街並みに誘われてうろうろしている内に「八幡煎餅」という古風な店構えを見つけた。目指す天沼・弁天社と合祀された天沼八幡の入口であり、その脇に緑道の「続き」を発見することができる。
 やがて緑道は髪の毛の細さになって家々の軒先を縫うように進むが、ふと大きく開けるとそこに大木の松の木陰に覆われた八幡神社の鳥居とその奥に立派な社が目に入る。その脇道を左に折れて暫く行くと、新緑に覆われた「天沼弁天池公園」へと辿りついた。既に、桃園川の水源は枯れてしまったようだが、公園内に誂えられた日本庭園の人造池にその面影を見ることができる。
 こうして、桃園川の源流を辿る旅は終わった。車の往来に煩わされることもなく、まるで近世の街道を往く道中のようなウォーキングを楽しむことができることは貴重なことだ。改めて、小河川の暗渠が都会に与えてくれた「贈りもの」の尊さを、沈みゆく夏日に思うのであった。
 夜の帳の降りる頃、天沼にほど近い荻窪駅前の「鳥もと」で焼き鳥をつまみにほろ酔い、数十年ぶりの「春木屋」で変わらぬ味の中華そばを堪能して、やがて中央・総武線の人となった。


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