腕時計を巡る時間の旅に浸っている内に、糸を手繰るように忘れえぬ街、ドレスデンの記憶が走馬灯の如く蘇った。様々な街を旅したが、死に際にもう一度訪ねたい場所は、と問われれば、間違いなくドレスデン、と答えるだろう。いや、その前に一度、停年を過ぎたら高校時代の無二の親友とこの街を旅することを既に約している。
この親友は「遠回りの旅」の連れ合いである。彼より一回り早く受験戦争に見切りをつけて大学生になった年、自分の居場所を求めて芭蕉「奥の細道」を辿る仙台までの徒歩旅行に出掛けた。彼が一年遅れて大学生になってから、それに刺激を受けた彼と、九十九里浜を踏破する旅、そして佐渡ヶ島を徒歩で一周する旅を共にした。彼は、佐渡ヶ島・相川の港に一緒に野宿しながら、徒歩旅行の疲れも忘れ、天空を舞い続ける流れ星を一晩中眺めていたほどのロマンチストである。
この友人も手を動かしてモノを作ることが大好きだった。高校時代のある日、彼の「アトリエ」(彼は西荻の自宅庭の離れを勉強部屋として供されていた)を訪ねると、薄いマリンブルーに白濁した3センチ角ほどの樹脂製のキューブを手渡した。賽子のように角目のとれた何の変哲もない立方体を掌に、暫しどうしたものか戸惑って見ていると、「電燈に翳して見るんだ」 と言う。

言われた通りにこの賽子を翳して見ると、その深いマリンブルーの中に北斗七星が浮かび上るではないか。もしや、と思いキューブを90度動かして別の側面を照らしてみると、案の定、今度はオリオン座が浮かび上ってくる。「右から光を当てると同じ面で違う星座が見えてくるんだ」 と聞いて、慌てて電燈を右手に身体を移し光をキューブの側面に当てると、別の星座が見えてくる。つまり、当時できたての光ファイバーを数本重ねて各面と他の5面を繋ぎ、これをそれぞれ星座として構成した立方体を、マリンブルーの樹脂で埋固めて側面を磨いたものだ。彼自身が創作したものである。
キューブを何度も電燈に翳しながら、科学的知識と美的感覚の融合した、そして何よりも手先の器用さと根気に支えられた、彼の「意匠」に深い感動を覚えた。少なからず優れた手工芸品には、共通してこの感動がある。
その後、社会人として多忙な生活を送る二人となったが、ドイツから帰任し、漸く共有できるようになったひと時に杯を酌み交わしながら、やがてまた、二人に自由な時間ができたら一緒にドレスデンに行こう、と彼を口説いた時にも、同じ「思い出話し」をした筈だ (彼は、驚くべきことにそのマリンブルーの星座のキューブを創作したことを、すっかり忘れてしまっていたが……)。
何故ならば、ドレスデンには、Gruenes Gewoelbe (グリューネス・ゲヴェルゲ:「緑の天井」)という素晴らしい手工芸品美術館があるからだ。これは前回ご紹介したザクセン公アルブレヒト以降の芸術政策の結果、ドレスデンに集めた職人達に造らせ、あるいは蒐集した手工芸品を、その子孫であるアウグスト強力王が宮廷の一部に財宝館として展示したことに始まる。その部屋の一部の天井が緑色に塗られていたためにこの名がつけられた。

例えば見事に育った珊瑚の一枝があったとしよう。これを銀製の女神ダフォーネより湧き出る美のオーラと見立ててしまった、ヴェンツェル・ヤムニツァーの1580年頃の作品。銀細工の見事さもさることながら、その頭頂と腕に赤く塗られたこの珊瑚をあしらってしまうという発想のユニークさ、斬新なる意匠。Gruenes Gewoellbe は、こうした意匠の驚きに満ちている。大きな白い巻貝の口を上にして銀の装飾と台座をあしらって酒杯としたもの。ダチョウの卵をそのまま身体にした銀のダチョウ像。細長く変形した天然真珠の膨らみを腹に見立てた、銀と宝石で彩られた中年男の小さなフィギュア。
その手工芸品の一つ一つに魅せられ、そして思わぬ素材の取り合わせの中に生まれるシュールレアリスティックな衝撃は、見る者の頭の中にひとつの物語りさえ醸し出すほどの創造力の発条となる。そう、100の作品があったとすると、それを見る貴方の中に100の物語りが宿るのだ。
だから、あの広大なルーブルに一週間滞在するよりも、このこじんまりとしたGruenes Gewoellbeで一週間を費やす方が、どれほど貴方の人生を豊かにするか知れない。これが、手造りの手工芸品の持つ、共鳴ともいえる生の浄化作用である。

ドレスデンは、1945年、連合軍により壊滅的な爆撃を受けた。街の広場の中心に聳え立っていたその象徴ともいえる聖母(フラウエン)教会も、この空襲により瓦解し、焼け焦げた石の瓦礫の山と化した。この石の山は戦後放置されたが、1990年の東西ドイツ統合のシンボルとして再建計画が立てられ、空襲によりこれを破壊した旧連合国や日本の財政・技術支援を受けて2005年に再建を果たした。その壁面にはポツポツと痘痕のような黒い石が散見されるが、これはコンピュータを利用して、瓦解した石の形から原型で使用されていた部分を特定し、再建された石組みの一部としてそのまま活かされているためである。
ドレスデンは(あるいはドイツは、といっても過言ではないが)、伝統技術に培われた手造りのものへのプライドを持ち、これを大切に育むことによって、「次の新しいもの」を作り出していく、世代を繋ぐ共鳴の連鎖をDNAとして保持している。
増幅された生産と消費に追い立てられる時代を超えて、あの流れ星に創作の礎をインスパイアされた生涯の親友とともに、百物語を紡ぎにぜひ訪ねたい場所であるに相違ない。