手元に壊れかけたひとつの腕時計がある。文字盤には、Glashuetteと記されている。これは、ドイツ駐在の際、ドレスデンのある小さな時計屋で買い求めたもの。それは、めったに聴くことのできない、Andreas Schollというドイツを代表するバック・テナーの独唱会がフラウエン(聖母)教会で開かれるのを知り、わざわざチェコ国境に近いエルベ河畔のその古都を訪ねた時だった。
ドレスデンはザクセン王国の首都として栄え、15世紀、趣味人であったザクセン公アルブレヒトはすぐれた音楽と美術をこの都市に集めた。そればかりではなく、多くの職人をザクセンに呼び寄せ、工芸品による産業興隆を図った。ドレスデンから20キロほど西に離れた、陶器で有名なマイセンも、その職人街のひとつである。

ドレスデンを挟んでマイセンとは逆のチェコ側に、時計職人が集められたのが、グラスヒュッテという山間の小さな街である。グラスヒュッテは15世紀には銀鉱山の村として栄えたが、やがて19世紀に鉱脈が途絶えると、スイスの時計産業を自国でも興したいというザクセン王の意向によりドレスデンに集められていた時計職人達がこの地に移り、日本で言えば諏訪と同じ、殆どの住人が時計産業を生業とするコミュニティを形成した。
1845年に最初の時計工房が作られてから手造りの腕時計の様々な会社が設立され、ランゲやノモス等のブランドが生まれた。しかし、ムーブメントには街の工房で製作された共通の手造りの部品が使われていた。時計学校の設立によりこの時計職人の技を次世代へと繋ぎ、100年の累積の中でその技術はスイスの時計産業を凌駕するものにさえなった。
しかし、1945年、ナチス・ドイツの崩壊とともに、ザクセン州の殆どがソ連の侵略を受け、戦後は東ドイツの社会主義体制下に入ることになる。1990年の東西ドイツの統合に至る45年間、しかし、グラスヒュッテは面々と受け継がれた職人の技を「グラスヒュッテ国営時計会社」の中で大切に守り抜いた。
実は、ドレスデンで買い求めたこの腕時計は、そのデザインからも分かる通り、1970年代のこの旧東ドイツの国営時計会社の製品である。外観はイミテーションによって新しくなっているが、ムーブメントは1970年代の「手造りの中古品」を使用している。だから、現在、グラスヒュッテの各メーカーの手造りの腕時計が100万円は下らない中で、5分の一の価格で買えるのだ、というのがその時計屋の触込みだった(当然、当時の東西の所得格差も影響を与えている)。このクラシックなデザインとその手造り感のあるずっしりとした重量感に、すっかり魅せられてしまった。

帰任が決まると、最後にドイツらしい工芸の街を見ておきたいと、マイセンとともにグラスヒュッテを訪ねた。今では、他のメーカーに並立する一つとして、Glashuette Originalというブランドがあり、その工場が見学できるようになっている。ムーブメントの部品のひとつひとつを手造りで仕上げていくその工程と、これを160年間守り抜いてきたその「職人魂」に感嘆させられた。
中古品(そのために、Glashuette Spezimaticという特殊なブランドになっている)なので、いつかは壊れると思っていたが、数年前、不覚にもコンサートのカーテンコールの際にしていて自動巻きの部品を壊してしまった。Glashuette Originalの代理店に出向いて、本社での修理を依頼したが断られてしまった。街のアンティーク腕時計の修理屋でも部品はないという。致し方ない。手造りとはいっても40年の歳月が経っている。
しかし、手巻きでは未だに使えないことはない。この腕時計の中には、社会主義体制によって封じ込められてしまった手工芸の技の時間が凝縮されている。歴史に"if"はないというが、もし、東ドイツという体制下になければ、グラスヒュッテにおいても、手工業の技はとうに潰え去っていたことだろう。それが自由主義に解き放たれたのが、既に大量消費社会を通り抜け、人々が手造りの暖かさを求めていた時代であったからこそ、グラスヒュッテは現代に生き残る途を得た。これもひとつの歴史の逆説、と言えなくもない。

そう思うと、なかなかこの壊れかかった腕時計は手放すことはできない。
最後に余談をひとつ。ご存知、Mission Impossibleのテレビ版(「スパイ大作戦」)は、当然製作時点での東西冷戦対立を背景としたスパイ合戦が設定となっている。東ドイツと思しき「敵」がふと腕時計に目をやると、だいたい「グラスヒュッテ国営時計会社」のこの時計がアップになる。巧妙にロゴは消してあるが、特徴的な文字盤の数字でそれと知れるのだ。いやはや、このドラマ作りの懲り方も、尋常ではないと見た。