エッセイ


絵馬の中の「日本」

投稿日時:2013/03/15 05:56


 三寒四温とは言うものの、今年のそれは並大抵のものではない。都心の一日の気温の高低差が20度といえば、沖縄から北海道に瞬間移動したようなものだ。
 もうひと月ほど前になるが、そろそろ南風に誘われるように、湯島の白梅を観に行った。江戸名所ほど手垢に塗れて俗化したものはないが、それもまた風流と見立てて茶化してやろう、という魂胆である。湯島天神の夫婦坂を上ると、まだ開き始めた蕾の顎の薄緑を宿した、若い白梅の枝は美しい。長い冬に閉ざし続けてきた心和ませる香りが、ほのかに梅林に漂う。改めて気づく、梅はバラ科の樹木、香り立つ花である。
 ふと気づけば受験シーズンの只中である。受験生とその親たちが真剣に本堂に祈りをささげている。所狭しと奉納された絵馬を結えた棚は、たわわに実った果樹を想わせ、重層に膨らんで地に沈まんばかりである。みるともなく観て歩けば、私自身が受験に失敗した有名校の数々が一枚の絵馬に納まらぬ程に書き込まれている。掛け持ちした学部が散漫の度を越しているが、一体、君は何者になりたいのか。…かくいう私も入試制度改革に突き当たり、生物学を諦めて社会学に転向した張本人であることに気付いた。
 その中に異彩を放つ一枚の絵馬に出会った。
「幸せになりたいです」…そうだ、若者は幸せな将来を思い描かねばならない。
「転職がうまくいきますように」…今の若者はもう終身雇用制などという死語は知るまい。
「可愛い彼女ができますように」…私も若い頃、幾度神頼みしたことか知れない。
「TOTO BIGに2回当選したいです」…おいおい、急に即物的な神頼みになってきたなぁ。でも何故2回なの?
「ダイエットがうまくいって、モテモテになりたいです」…きっとちょっと肥満気味なんだね。でも痩せることイコールもてることでもないと思うよ。
「家族が笑って過ごせますように」…近頃の家庭には、笑いがないからね。君自身が頑張らなければならないことだ。
「サッカーもっとうまくなって、プロになりたいです」…肥満体の君には少し無理ではないかね?「転職」って、まさかこのことじゃないよね?
「ポルシェのカイエンが欲しいです」…い、いい加減にせぇ!
 …と5分ばかり、一枚のユニークな絵馬と対話していた。年齢23歳。こんなもんなのかね。こんなもんなのだろうね。硬直化した社会には大志を抱く術もなく、現世の細やかな欲求を満たすことしか、現在の23歳の夢や希望として残されているものはないのだろう。君も、非正規雇用者として苦労してるかもしれないしね。
 今年の冬は寒さ厳しく家籠りしていたので、かなりの読書をしたが、つと、「遅れてきた」藤原新也ファンになってしまった。芸大を中退してインド放浪に向かった彼の旅とは比較にならないが、私も苦悩に身悶えしていた二十歳に、芭蕉「奥の細道」を仙台まで600キロ歩いて独り旅をした。旅の喜怒哀楽のリアリティの持つ力は、若者のまだ繊細で萎えた精神を揺さぶり、生き方の背骨を太くし、姿勢を正してくれるものだ。何よりも異文化接触によるカルチャーショックは、決して陥ってはいけない独善から身を救ってくれる。
 絵馬の若者よ。君もゲーム機やリアリティのない現実を捨てて旅に出るがいい。君が幾つも絵馬に書き並べた願いは、何一つ報われることがなくとも、君はきっと「幸せになれる」機会を攫むことができるに違いない。
 こう自問自答を繰り返し去ろうとしたそのとき、絵馬の右の空白に、思い出したようにこんな一言が書き加えてあったことに気付いた…「結婚したい」
 君達の長い一生は、まだまだ始まったばかりだ。世の中、そう悲観すべきことばかりでもないぜ!
 


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