エッセイ


6ヶ月プラス10ヶ月の迷路 ― 懲役36年の後始末 ①

投稿日時:2019/02/23 23:23


 袴田巖は48年間を刑務所で暮らした。死刑が確定して34年間、明日をも知れぬ己が命と向き合い続けた日々は、ボクシングで鍛えた強靭な精神をも蝕むこととなった。36年間というのは、私が社会人(…ということは現在は「社会」人ではないのかもしれない…)として囚われた期間である。袴田のように自らの実存に向き合う崖っぷちの日々ではなかったにせよ、彼の抱いた死への恐怖と同様に、「ある価値観」に対し偏執的に囚われ続けた日々であることに変りはない。その「ある価値観」を教育的に擦りこまれた期間を「執行猶予」と数えれば、執行猶予17年(私の場合、1年間の大学浪人期間を含めている)…ということになる。執行猶予後も、私は「罪」から逃れることなく36年間の実刑による「刑期」を遂げた、ということである。

 無論、囚人が刑務より学ぶ事があるように(刑務所の生産物が時に市販のマスプロダクツ商品に勝る品質を獲得することさえしばしばである)、私が36年間の「刑期」から学んだことは少なくはない。否、寧ろ、多分私はその36年間に「社会人」としてしかるべき成長を遂げたことに深く感謝すべきだ、とさえ考えている。だが、(と敢えて60歳を過ぎた今、問うのだが)それは本当に自らが選択した半生だったと言えるのだろうか。少し大袈裟な言い方をすれば、明治以降の近代化に醸成された「成長のイデオロギー」の中で、不可避的に「右肩上がりの生き方」を強いられただけではないか。かくして、定年退職後の6ヶ月、そしてその前に「フリー勤務」なる「栄誉」を与えられて仕事を離れた10ヶ月に考えたことを、ここに一度整理してみたい、と思い立ったのである。

 58歳を迎えた年の2月、親切にも会社は「ニューライフ・プランセミナー」を開催してくれた。2年後に定年を迎える約百人が三回に分けられて参加する。60歳以降76歳に至るマネーデザイン(ライフデザインに合せた年間生計費収支と資産残高)をインストラクションに従って個別に算定する。定年後の将来ビジョンを与えてくれることは、大変結構なことだ。だが、ローンで自宅を購入した際に作成した試算が、結果的に如何に現実と乖離したものだったかを痛感する身には、それは所詮「絵に描いた餅」に過ぎないことは自明である。そもそも、バブル時代に想定していた将来給与など絵空事、ましてや購入物件の資産価値は購入価格の二分の一。将来設計も何もあったものではない…というのが私たち世代が経験したことなのである。…であるからして、最初からそのセミナーのマネーデザインには何のリアリティを感じないまま、皆んな眉唾顔で鉛筆を走らせている有様である。

 それでも、切羽詰ったような悲鳴を上げている同僚が何人かいる。定年後もローンや教育費を抱えている連中だ。ローン審査の厳しかった時代に借り入れしたこの身にしてみれば、55歳で返済できる借入の範囲内で購入価格に上限設定した事が、結果的には資産逓減リスクを軽くした(それでも、今では信じられないような4%の年利でローンを返済しているのだが)。ローンで悲鳴を上げているのは、バブルに乗じて審査基準が緩和され、低金利を追い風に背伸びして高額な物件を購入し、更に返済期限も65歳、70歳へと繰り延べを許された、比較的「熟慮型」(だった筈)の人たちであった。ライフサイクル上は、子どもをつくることも比較的遅く、60歳にして未だ教育費支出が継続している、という二重苦に苛まれる結果となる。さまざまな理由あって、結局は子をなさぬことになったこの身を、ふと幸いと感じてしまう倒錯は、時代の孕んだ矛盾のもたらす皮肉といえるのかもしれない。

 さて、マネーデザインの60歳の欄、収入の部には失業保険給付金百万円、というのが事前に刷り込まれている。この勤続条件であれば当然受給されるべき金額なのだろうが、巷間では「求職の意思のない定年退職者には支給されないこともある」というのは、迷えるわれわれ子羊たちも聞き及ぶところである。しかし、誰として「どうすればいいか」についての言説を弄する者はない。つまり、夫々の健闘に委ねる、ということなのだろう。講師に質問する者もいなければ、休憩の会話の中でも、これについて詳細なる情報を持つ者はいない。果たしてそれで、60歳の収入として、失業給付を加えることが望ましいのか、…との疑念が煩悶を呼び起こす。

 懲役36年の刑期を終えた出所者には、この課題は少なからぬ努力を強いる結果となるのだが、その岐路にあたり如何なる指針もヒントも与えられていない。かくも永き刑期を終えた囚人がとるべき、「後始末」を要とする事象は、決してこれに止まるものではあるまい。私の6ヶ月プラス10ヶ月はまさにそれを自覚化する時期であった、ともいえるのだ。無論、経済的な課題に尽きるものではない。

 袴田のような確定死刑囚の未決囚は別として、長期刑の囚人同様、特定の組織の中で特定の価値観に支配され続けた者にとって、「娑婆」で起きている事象への現実的な対応は、赤子のような鮮烈な初体験を強いるものである。これを愉しまずして、果たして娑婆に出所したる歓びは如何ならん、…と感じるのは私だけだろうか。この16ヶ月に感じたこと、かくして徒然に記さんと思っている。



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